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2015年11月28日 (土)

社交ダンス最終発表会

 11月24日、最後の寄港地アピアを終了し、横浜に向かって出港した。
その後、何かと気ぜわしい。

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 11月28日は、社交ダンスの講習終了の最終発表会が予定されている。それまでの間、日に1~2回のタンゴのレッスンと、ブルース、ワルツ、ルンバの復習がある。
 私はKさん(80歳)、Oさん(76歳)と同室であるが、3人とも社交ダンスのスクールに入っている。Kさんは、弓道5段、元大手企業の本部労組委員長で見識が高く頭の回転は早いが足がうまく回らない。Oさんは元我国最大の自動車会社の技術者で折り目正しい。囲碁も3段でクルーズの第1回の囲碁大会でも優勝しているが、これまで社交ダンスとは全く縁がなかった。見ていると二人ともダンスのレッスンについていけない様子である。
 そこで、二人からの要請もあり、時々Tさん(女性)にも手伝ってもらって、私が先生となって毎朝6時~7時まで個人レッスンをすることになった。
7階の廊下の広場でレッスンをしていると、通りすがりのダンス好きの男性・女性が飛び入り入ってきて5~6人の練習になる。そんなことで、このレッスンを3週間程続けている。
 11月26日は、自主企画で社交ダンス教室受講者の懇親を兼ねたガンスパーティがあり、Kさんが男性最高齢者ということで受講生を代表して先生に対してお礼の言葉を述べた。11月28日は、講習終了の最終発表会があり、Kさん、Oさんとも立派に踊ることができた。私も嬉しい。

 船は南半球から北半球へと移動するが11月27日は、赤道を通過した。その日は30分毎に交代で歩くノルディックウォークのタスキリレーと、餅つき大会があった。
ノルディックウォークのタスキリレーでは、私は6時~6時30分と船が赤道を通過する14時30分~15時まで2回タスキをつないだ。

 11月27日の夜のディーナーでは、まんなか発表会でパートナーして踊ったTNさん親子より誕生会の招待があり、楽しく過ごすことが出来ました。
どうもありがとうございました。

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2015年11月25日 (水)

アピア(サモア)

 11月24日のアピアが第88回ピースボート地球一周の旅最後の寄港地となる。
アピアは、サモア独立国の首都で人口は37,000人である。観光と魚業や林業(魚やコプラの輸出)を主な産業としている。
 サモアに人が住みついたのは今から2500年前、我々と同じモンゴロイドがフィリピンやインドネシアを経由して、この島に入った。その後1200年頃にはトンガ人のトンガ王国の支配下にあった。18世紀以降はアメリカ、ドイツ、ニュージランドの支配を経て1962年に独立した。

 11月24日午前中は、オプショナルツアーのアピアショート観光コースに参加した。観光と言っても、この国には特別に見るべきものが少ない。

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 最初に行ったのは「ロバート・ルイス・スチィブンソン博物館」、ロバート・ルイス・スチィブンソンはアメリカ人であるが約100年前、この国にアメリカ風の邸宅を建てて住み、そこで有名な「ジキル博士とハイド氏」「宝島」「誘拐されて」の3つの小説を書いた。住んでいた期間は10年位であるか、その邸宅と遺品がそのまま残っている。
ツアーでは、彼とその家族が住んだ居所、書斎、寝室、ロビーなどを見て回った。

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 次に行ったのは「ティピアの滝」、山の中にあるサモア最大(落差100m)の滝である。

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 その次は、車窓から市街を見物し「土地称号裁判所」に行った。サモアでは国としての法律はあるが、島ごとに部族単位で自治が行われている。この裁判所は、部族間の紛争を解決するための裁判所である、とのことであった。

 その後は、マーケットに行ったが、主に女性や子供の民族衣装や装飾品を売っている。一周りすると、パンを油で揚げて売っている店が何軒も並んでいる所に出た。そのパンを地元の人が美味しそうに食べている。買わないかというので1つ買ってみた。1つ1.5ドル、中に何が入っているか分からない。食べて見ると煮込んだ肉が出てきた。少し匂いがするので何の肉か尋ねるとラム(こひつじ)の肉だとのこと。ラムの肉を食べたのは初めてだ。少し匂いがするが美味しい。

 マーケットで同じツアーバスに乗っていたTさんとYさん夫妻の4人でバスを降りて離団し、市内でランチを共にすることになった。
案内パンフレットを見て、歩いて20分位ある「ザ・コーヒー・ビーン・カフェ」に行った。テーブルについてビールと頼むとこの店ではアルコール類は販売しないと言う。
仕方がないので店を出てタクシーを拾って山手の「ロコス・レストラン」に行った。

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 「ロコス・レストラン」は山の入り組んだ所にあり静かで周りの山が庭園のようになっている。静かだ。鳥のさえずりも聞こえる。一人ひとりがシーフードやロブスター、ビーフなどを注文し、お互いに分けあいながら食べた。山の景色を眺めながらゆったりした気分でランチを摂ることができた。料金は飲み物も含めて一人15ドル位だったと思う。

 ランチの後は、一先ず船に帰って一休みした。

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2015年11月21日 (土)

ボラボラ島(タヒチ)

 ボラボラ島は、タヒチ島から約260km離れた所にある島で、ポリネシアの中でも最も美しいと言われている。1周約35kmの本島と、その周囲を約40kmの岩礁が囲んでいる。
島の中央に急峻な台形の形をしたオテマ山(727m)がそびえ、島の景観を一層際立たせている。島の人口は約4500人です。

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11月19日は、私一人で自由行動、自転車を借りて島内を一周した。

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 クルーズは、午前7時にボラボラ島沖に到着、そこからテンダーボートで本島のバイタベに渡る。
 8時半にバイタベのレンタル店に行くと、ピースボートの若い人達が既に行列を作っている。レンタル自転車は全部で8台しかないようだ。自分まで回ってくるかヒヤヒヤしていたが、最後の1台をゲット出来た。もう少し遅れると借りられないところだった。レンタル料金は20ドルでした。

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 バイタベから左回りで島内を一周する。左にオテマ山、右にサンゴ礁の海を見ながらマティラ岬に向かう。この間、ピースボートのパッセンジャーを載せたタクシーやジープが次々と追い越していく。

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 マティラ岬に着いたのは9時30分。マティラ岬は、白い砂浜に遠朝の透き通った海が広がっている。遠くには青い海と岩礁が見える。ここでスノーケリングを楽しみに来ている人が多く、多くのピースボートの知り合いに出会った。
私は、スノーケリングの準備をしてこなかったが、ここで泳ごうと思って水着に着替え、海に入った。波打ち際には、沢山の白い貝殻が転がっていたが、魚の姿は見かけなかった。
海で泳いだのはもう50年も前のことかも知れない。ゆっくり泳いでいるうちに何とか泳ぎの感を取り戻した。しかし、一人で着ているので沖へ流されても誰も見ている人はいないので念のため海岸近くで遊んでいた。
 

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2015年11月19日 (木)

パペーテ(タヒチ)

 パペーテはフランス領ポリネシア及びタヒチ島の首都である。人口は10万人、瓢箪型の形をした島で中央に標高2241mのオロヘナ山がそびえている。
熱帯モンスーン気候に属し、12月から1月は降雨領が多く緑豊かな島である。
1966年から30年に渡って、フランスが近くの海で核実験を行い隠れた被爆者がいると言われている。

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 クルーズは11月17日午前7時にパペーテ港に入港した。
この日は久しぶりにTさんと一緒に自由行動をとる。ここは交通事情が悪く、移動はタクシーかジープになる。タクシーでは長時間乗るとかなり高くつくので、船から降りてパペーテの街でレンタカーを借りようとレンタカー会社のオフィスを尋ねたが、店が閉まっていて借りられない。やはり事前予約がないとダメなようだ。
仕方がないので、近くの土産物店でタクシー乗り場はどこか尋ねると、それなら私の友人を紹介するとのことで、5分ほど待っているとタクシーが来た。
料金は1時間あたり50ドル、これはどこのタクシーでも同じだ、とのことであった。
 タクシーで先ず「パイヤの泉」に行って、その後ゴーギャン博物館と植物園に行って、また、パペーテに帰って来るように頼んだ。
運転手はエディという名前で49歳、6人の子どもがいるとのこと。タクシーの運転手とコックとミュージシャンの3つの仕事をやっているという。
 最初に行ったのが「パイヤの泉」、ペリーズから「パイヤの泉」まで約1時間である。車の窓から外を見ているとあちこちにパパイヤ木が植えてある。
「パイヤの泉」は日本で言えば湯治用の野外温泉。鉱泉が湧き出て川に流れている。地元の人がよく使う穴場である。

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「パイヤの泉」に着くと、既にポリネシア及びフランス系の男女が10人ほど水浴びをしていた。私達も水着に着替えて泉に入る。水は、最初は冷たかったが、その日の気温が30℃程あり、なれると寒くない。中に入っている人に話かけると地元から水浴びに来ているという。ダンス教師のココさんを知らないかというと、知っているとの答えである。そこで、私が川岸に上がって、ココ先生に習ったタヒチアンダンスの「イオラナ」を披露すると拍手、直ぐに仲良くなってしまった。
船ではシャワーだけで風呂がなかったので、ここでの水浴びは心地よくリラックス出来た。

 「パイヤの泉」を出て、次に「ゴーギャン博物館と植物園」に行ったがメンテナンス中で休園、仕方がないので入園門の近くの海岸に行って見た。

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ヤシの木の大木が何本もあり、その向こうに淡いサンゴ礁の海と遠くに青い海と環礁の白波が立っている。

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浜辺にはヤシの実が2つ、3つ流れ着いている。Tさんが島崎藤村の「ヤシの実」を歌いだしたので、それに連られて大きな声で、二人で「ヤシの実」を歌った。

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 ゴーギャン博物館の代わりに「ファイマルの滝」を見学すると11時30分頃になった。
運転手のエディに近くで美味しくて安いタヒチ料理の店がないか尋ねると、約10分位行った所にある大きなレストランに案内してくれた。
このレストランでは、タクシードライバーは料理は無料という特典があり、レストランにいる間はタクシーの時間チャージも対象外にするとのことであった。
 レストラン内に入ると、ピースボートのオプショナルツアーの30人程の団体がいて、食事を摂っている。知り合いも多い。私達はツアーとは少し離れたところに席を取り、Tさんはビーフ、私はフイッシュのタヒチ料理とサラダを頼んだ。
どのように調理されているかはよく分からなかったが、ワインを飲みならゆっくり食べると美味しい。料金は飲み物込みで一人あたり50ドルだったと思う。
食事が終わる頃になるとピースボートの団体も帰り、広い店内にフランス人らしい観光客4人と私達だけになってしまった。店にBGMの曲目を頼んで二人でルンバとワルツを踊った。変な日本人だと思われたかも知れない。

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2015年11月17日 (火)

タヒチアンダンスに挑戦!

 私は、乗船前はサルサダンスのカルチャースクールだけに入る積もりであったが、乗船してみると多くの同年代の人が社交ダンスのカルチャースクールに参加していて、これが社交の場になっている。社交ダンスのカルチャースクールには男女合わせて150人ほどいるだろうか。ここで行う社交ダンスはチークダンスのようなものではなくスポーツダンスである。
 先のブログで紹介したがワルツを習い始めてから、ダンスは意外と自分に向いているのではないかと気がついた。これまで社交ダンスではブルース、ワルツ、ルンバの基本を習得した。その他、サルサ、メレンゲ、ZUNBAもやっている。

 ペルーのカヤオを出た後、世界にタヒチアンダンスを広めようとしているタヒチアンダンス教師のココ・ティラオさんが乗船してきて、講演とタヒチアンダンスのレッスンが始まった。
 折角、タヒチに行くのだからタヒチアンダンスを習って現地の人と一緒踊ってみたい。1回から3回まではスケジュールが合わずレッスンに参加できなかったが、4回目からレッスンに参加した。


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その後、10回位のレッスンと、ワークショップとして踊りの衣装作りがあり16日の夜にポリネシアンナイトで踊りを披露することになった。
 頭と手に着ける衣装は、ココさんの指導で、ワークショップでタコの樹の葉を編んで作った。曲目は2曲あり、一曲は「イオラナ」、これはかなり激しい動きをする歓迎のダンスで、日本にいた時に、ポリネシアンの紹介映像で見たことがある。もう1曲は「ヘイティバイヒ」、これは手の動きから想像すると男女の恋のものがたりのようである。
体力的にかなりキツイ踊りであることとダンスのステップを覚えるのが難しい。20代の人は、割りと簡単に覚えるようであるが、私は73歳、なかなか覚えられない。そこで、ココさんの踊りをビデオに撮り、部屋の持ち帰りパソコンに入れて、ビデオを見ながら練習することにした。
 私の部屋は3人部屋、残りの2人は「本当にやるの?」と、最初はあきれた顔をしていたが、そのうち「シニア代表で頑張れ!」といって、私が練習を始めると気を使って部屋から出て行ってくれるようになった。

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 16日夜、スポーツデッキでポリネシアンナイトのショーがあり、ショーの前に踊りを披露することになった。
発表者は、練習始めは女子が100人、男子が30人くらいいたが、最後まで残ったのは女子が60人、男子が10人である。リハーサルのフォーメーションで私は左舷最前列のポジションに決まった。
 当日は、少し間違えた箇所もあったが、まずまずの出来だったと思う。練習中はなかなか覚えられず焦って苦しい思いをしたこともあったが、踊り終えると「自分にできることはやった!」という達成感で一杯になった。
当日は、同室の人や、Tさんはじめ友人たちも見に来て励ましてくれた。踊り終えた後、友人達と一緒にビールを飲みながショーを見る。その味は格別でした。
 一般見学者向けのタヒチアンダンスの簡単なレッスンがあり、その後、男子が好きな女性を選んで一緒に踊るという企画もあり結構楽しかった。同室のKさんがその時のスナップ写真を撮ってくれていて、後からその写真を見て笑ってしまった。
 これは、自分勝手な小さな挑戦ですが、皆さんの支えがあってできたことです。
皆さん、良い人ばかりで本当にありがとう。

 この後、横浜まで発表の間に社交ダンスではタンゴのレッスンがある。12月1日の最終発表会ではサルサダンスの発表もあるようだ。また、頑張ります。

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2015年11月 8日 (日)

ペルー料理

 ペルーの食べ物は、インカ時代の食べ物、スペインの食べ物、スペインが奴隷として連れてきたアフリカや中国の食べ物、後から入植した日本の食べ物が入りまざって世界一美味しいと言われている。
 3日はリマのレストランで夕食を摂った。その時タクシーの運転手から進められたのが「セビチェ」である。「セビチェ」はこの様な各国の食べ物が混ざったペルーの代表料理と言われている。
 「セビチェ」は、生の白身魚の小骨を良く取り除いき1-2cm角くらいに切る。これにみじん切りにしたタマネギとトマトを加え、レモンをたっぷり絞って混ぜ合わせる。これにパセリ、オルガノ、唐辛子、塩などをかけて食べる。具材には、白身の魚の他、エビ、タコ、イカ、ホタテ、ハマグリ、ウニなどの貝類が使われることもある。
 夕食では、セビチョにあわせてパスタ、サラダを頼んだ。パスタは美味しかったが、私には「セビチョ」の味がもう一つピリッとこず、うまいとも、まずいということはなかった。香辛料の選択とかけ方を知らなかったのかも知れない。料金は飲み物も含めて一人50ドルでした。

 4日、5日、6日はクスコ県にいたので、インカ料理が中心だった。
インカの料理は、トウモロコシ、イモ類、豆類と山の果物である。肉料理も少し出る。
クスコ周辺は山地であるが川沿いの殆どの山の斜面が段々畑となっていて作物が植えられている。植えられる作物は3,000m以下ではトウモロコシ、3,000m以上ではイモ類である。
特に、トウモロコシは粒が大、中、小、色が白、黒、紫と色んな種類がある。
11月4日はウルバンバのレストラン、5日、6日はクスコとホテルや観光地のレストランでインカ料理を食べた。パン、トウモロコシ料理、芋、豆、ライス、肉類、デザートが並べられており、バイキング形式で自分の好きなものを取って食べる。最初は美味しいと感じたが、どこへ行っても似たような料理が出てくる。炭水化物が多く毎日食べると飽きてくるように感じた。
 5日にマチピュチの行った時に、マチピュチの中でパッションフルーツ実っているのを見た。私は自宅で、緑のカーテンの作物として2年続けてパッションフルーツを植えたが実がならない。ここでは自然に自生し実がなっている。
翌日、ホテルの朝食の食べ物の中にパッションフルーツが並べてあったので、食べてみた。中にザクロのよう実が沢山ある。実は柔らかく水々しいが、甘みが足りない。ウェーターにこの果物を何と呼ぶか聞いて見たら、「グラナディナ」だと教えてくれた。

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2015年11月 6日 (金)

マチュピチュ

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 5日は、地球一周の旅で最も期待していたマチュピチュ観光である。
マチュピチュはクスコから約110km離れた標高は約2,400mの山奥にある。1917年にアメリカの考古学者ハイラム・ビンガムが発見し、研究結果をまとめた著書「失われたインカの都市」はベストセラーとなった。その景観の美しさと、インカには文字がなく今でも分かっていないことが数多くあって「なぞの都市」として有名である。

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 朝7時にクスコのホテルを出て、ペルー鉄道でオリャンタイ駅からウルバンバ川に沿ってマチピュチ駅に向かう。

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所要時間は約90分であるが、列車の天井はガラス張り、全ての座席が食堂形式になっていて途中で軽食と飲み物が出る。急峻な山あいを、景色を楽しみながらコーヒーを飲むというのもなかなか乙なものである。ペルー鉄道もなかなか商売上手である。軽食の後、CDやみやげ物を社内販売する。帰りの列車では、アパレルのファッションショーを行い、その後アルパカのドレスやコートを販売していた。列車の料金は片道一人70ドルとのことでした。

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 マチュピチュ遺跡の入場口についたのは11時過ぎ、入場口の前のレストランで昼食を摂ってマチュピチュ山の登山道を登る。5日はあいにくの雨、雨合羽をつけて石畳の階段を登ること約1時間、雨が止んで霧の合間からマチュピチュが見えてきた。
 

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2015年11月 5日 (木)

クスコ(ペルー)

 11月4日朝午前3時30分に船を出てバスでリマ空港へ行く。リマで空港よりチャーター機でクスコへ、クスコ着6時15分。
クスコは標高3400m、前日はリマで夕食を摂り帰ったのが午後10時、高山と寝不足の関係からか頭がふらふらするので、高山病予防のためゆっくり歩く。クスコ空港から観光バスに乗り換え、そのまま観光に出かけた。

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 クスコは、元インカ帝国の首都、スペインが入る前の1400年~1500年が最盛期で、当時の帝国の人口は1500万人、クスコには20万人が住んでいたという。最盛期には、ここクスコを帝都としてボリビアまで及ぶ10万kmに及ぶインカ道で結び各地を支配していた。
現在のクスコの人口は32万人で、市街は世界遺産(文化遺産)に登録されている。

見学した所
■ケンコー遺跡
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 切り出した石を加工して積み上げた遺跡、1つの石の大きさは1m以上あるが、それらの石がスキマなく一定の方向に積み上げられている。このような石組みが10ケ所ほど並んでいる。石切り場はクスコより6km以上離れたところにある。インカには文字がなかったので、このような大きな石をどのように切り出し運んできたかは謎である。

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 石と石の間を詰めるのに、石の棍棒のような道具で叩いてカミソリ1枚も通さない程の精度に仕上げている。

■クスコ市街
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 マルサス広場、大聖堂、12角の石、太陽の神殿を見学した。
マルサス広場は、元はインカ帝国が作った広場であったが、スペイン人が侵略してインカの建物を破壊し、その上にスペイン風の建物を建てようとした。しかし、インカの石積みが堅固で破壊することができず、インカの石積みの上にスペイン風の建物を建てた。建てた時期は1500年代前半、インカ帝国を征服した直後でインカ帝国の税収制度をそのまま利用してインカ帝国1500万人から莫大な資金を集めて建てているので大変立派な建物ばかりである。

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 広場中央の大聖堂は、インカ帝国を征服した記念に建立されたもので左が聖堂で周囲30kmまで届く鐘が付いている、右が福音である。

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その他、サンタカタリーナ聖堂院、サント・ドミンゴ教会など、どれもインカの石積みの上に建てられた立派な建物である。
 第3者である私から見ると「スペイン人は何とひどいことをしたものか」と思うのであるが、現在、ペルー人の殆どはスペイン人との混血であり、そのような感情を持っていないようであった。

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2015年11月 3日 (火)

赤道通過

 11月1日午後2時14分、赤道を通過した。しかし暑くない。半袖シャツに薄いパーカーを羽織る程度過ごしている。
暑くない理由は、南極から流れる寒流のフンボルト海流がペルー西側の海岸近くを流れているためである。そのお陰で上昇気流が発生せず雨が降らない。航路説明会で地上絵やマチピュチなどのインカ帝国の遺跡がそのまま残っているのは、雨が降らないせいであるとの説明を受けた。
 11月3日午前9時から11月6日までペルーのカヤオに寄港する。
私は、今回は2泊3日のオプショナルツアーに参加する。11月4日午前2時半に出発し飛行機でリマを経由し午前6時にインカ帝国の首都クスコに到着する。11月5日はクスコの観光、次の朝、列車でアンデス山脈を超えてマチュピチ遺跡を観光する。その日にクスコに帰ってクスコのホテルで宿泊、11月6日の16時に船に帰るスケジュールである。
 クスコは標高3,400m、マチピュチは標高2,430m、クスコからマチピュチに行く途中、峠を超えるときが最も高い地点なる。高山病が少し心配です。
ピースボートの診療室より「ゆっくり行動する」「水分を多く摂る」「適度な塩分を心がける」「飲酒をしない」「呼吸が苦しくなったら鼻からゆっくり吸ってゆっくり吐く」という5箇条の注意書きが配られた。
過去に富士山に登った時に頭が痛くなるという症状の高山病に罹ったことがあるので、用心のため今日から飲酒をひかえることにする。

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