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2015年10月31日 (土)

パナマ運河航行

10月31日パナマ運河を航行しました。
この頃は気ぜわしくブログを書きませんでしたが、いい写真が取れていましたので、後付で掲載します。

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パナマ運河の全体構造です。

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船がミラフローレス閘門を通過する所です。

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ミラフローレス閘門を通過直後、運河沿い左側ワニがゆうたりと泳いでいました。

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太平洋出口近くにアメリカ橋がある。
1962年に2,000万ドルの巨費を投じて架けられた。2004年にセンティニアル橋が架けられるまで、南北アメリカ大陸を結ぶ唯一の橋であった。

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クリストバル(パナマ)

 10月29日午前11時 パナマ運河のカリブ海側の入口の街クリストバルに入港した。
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この日は市内観光をせず、バスで約30分パナマ運河の最上階の湖、ガトウン湖でボートによる湖周辺の動植物の植生の見学と熱帯雨林の散策に参加した。

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 ガトウン湖は約50年前パナマ運河を建設する時に船を運ぶために作った人工湖である。
熱帯雨林と言っても、故郷の裏山の小路を散策しているのと余り変わらない。ただ、生えている植物が熱帯系の木々であるということと、太陽の光を求めて木が高く茂っているという点である。

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雨が降ると動物が隠れて出てこないが、この日は晴れていてホエザルをあちこちで見かけた。

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 ボート遊覧では、湖岸の植生や動物を観察する。すぐ横の木の上で寝ているナマケモノを見た。ナマケモノは殆ど動かない。1日20時間は寝ているとのことであった。これはコカインのような毒のある木の葉を食べる。その毒を消化するためにエネルギーを集中する。消化が終わるまで木の上でジーとしているとのことであった。

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 ガトウン湖では所々に木の株が湖面に顔を出している。これはエルニーニョ現象で湖面が下がっているためである。エルニーニョ現象が起きると雨が降る期間が短くなり乾季が長くなる。当地では通常は1月から乾季に入るが、今年はもう乾季の気配が出ている。
乾季が長くなると植物は太陽の光を多くとることができることと、通常と気配が違うので危機感を抱いて子孫を残すために木の実を多く作る。現地案内人はエルニーニョ現象が起きて良い点はそれだけだ、といっていた。エルニーニョ現象による異常気象は植物だけでなく、動物も同様に危機感を抱いている様子が伺えるとのことでした。

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 熱帯雨林の中では熱帯性の植物の説明をうける。動物では葉を運ぶアリやフライキャッチャーなどを見た。

 今日は、ゆったりした気分で自然楽しみながら、生態系のお勉強でした。
でも、体を動かすことが少なく中途半端な気分でした。明日は朝6時から約9時間を掛けてパナマ運河を渡る。いつものグループで「パナマ運河航行記念バーベキュー」をやるので、そちらの方で食べて飲んで騒ぎバランスをとりたい。

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2015年10月29日 (木)

ベリーズ

10月27日
 ベリーズはカリブ海沿いにメキシコの南側に位置する国である。人口は約60万人、首都はベリーズシティで人口は6万人である。第二次世界大戦の後、イギリス領から独立した。主な産業は観光で、2番目は農業―バナナの生産である。

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 クルーズは午前7時にベリーズ港に入港した。船からベリーズシティクルーズターミナルまではタグボートで渡る。移動時間は約20分である。27日はツアーではなく自由行動とした。

 午前中はトロリーバスで市内見学、トロリーバスとは言うもの発着場でオープンカーにしてほしいといったら何とオート3輪に4人の乗りの座席シートをつけたものだった。
私一人では間が持たないと思ったので、ターミナルで出会ったSさん夫妻他合計4人で乗ることにした。

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 オート4輪の運転手兼ガイドにゆっくり話をしてくれ、と頼んだら所々で止まってゆっくり説明をしてくれた。所が、少し英語が分かるのが、私一人だったので、私の中途半端な解釈で通訳をすることになったしまった。同乗者の皆さんすみません。メモリアルパーク、造幣局、高級住宅街、市場、ショッピング街、農産物市場、セント・ジョーンズ・カテドラル(200年前、英国が建てた協会)などを一回りした。
4人だけの少人数に対するガイドだったので、分からないところは聞き返せる。プライベートな話でガイドが出た学校まで案内してくれた。街の道路が狭く大型車が入れない場所が多々あり3輪車が正解のようだった。

 市内見学の後12時30分にTさんと待ち合わせてあったので、街中をぶらぶらして時間をつぶす。Tさんはオプショナルツアーをとっていて終了後合流、12時40分にTさんの母校の三田会の先輩と一緒に待ち合わせ場所に現れた。3人でレストランを探し15分ほど歩いて海岸線近くのレストランに入った。
 市内見学のときにベリーズの一般的なディナーはビーフ&ライスであると聞いていたのでビーフ&ライスを注文した。ライスとビーフにココナツ等の甘い野菜を添えたものである。ビーフは柔らかくて美味しかった。
レストランの2階の窓から外の景色を楽しみながらゆっくり話しをしながら食べ飲んだ。結局地ビールを3本飲んだことになる。

 ランチの後、別れてお互いに別行動をとることになった。私は床屋に行くことにした。道であったおばさんに近くに床屋がないか聞くと、大通りから路地に入った床屋に連れて行ってくれた。床屋は大男、いつも店にいる友だちと大きな声で話しをしている。この床屋は散髪をするときお客と話ししながら刈るのだろう。所がお客の私が日本人だったので話をすることができず、代わりに周りの人と話をしたのだろうと推測した。
散髪の方はバリカンでサッサッと髪を刈る。その後はカミソリで髪型を調整、約20分で終了した。料金は10ドル、チップとして1ドル渡すと、その金を案内してくれたおばさんにそのまま渡していた。

 散髪の後はターミナルまで歩いて帰る。当日の気温は31℃、ターミナルナで歩いて帰ったが汗びっしょり、ビールを飲んでいたこともあって喉が乾く。

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ターミナルでジュースを飲もうと探していたら、ビートの聞いた音楽をガンガン鳴らしているカウンター形式の店に出あった。カウンターの中にウェーターが2人、ウェートレスが2人、売っていたジュースはマンゴージュース 10ドルだという。少し高いと思ったがマンゴージュースを頼んだ。ジュース飲んでいるうちに目の前のウェートレスが音楽に合わせて腰を振りながら踊りだした。腰の振り方はベリーダンスに似ているが、ベリーダンスとも違う、ベリーズ流メレンゲらしい。クルーズでサルサダンスを習っていたとところなので私も何とかやれるのではないかと思って、カウンターの外に出てきて一緒に踊ろうといったら、恥ずかしそうに外に出てきて一緒に踊りだした。その内にもう一人のウェートレスも一緒に出てきた。3人で踊る。私の方は見よう見まね。ベリーズ独特のビートの利いたテンポの早い曲に合わせて腰を振りながら踊る。日本人が踊っているのが珍しいらしく店のウェーターが仕切に写真をとっている。周りで見ていた別の現地の女性も一緒に踊りたかったらしく、踊り終えるとタッチしてきた。踊りの好きな陽気な国民である。
 帰ろうとしたら、マンゴージュスは10ドルではなく、徳利型をした容器が5ドル、ジュースが5ドルだった。踊った記念にと容器を綺麗に洗って渡してくれた。
ありがとう。楽しかった。

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FMラジオ小松生出演

10月25日
 午前中はコスメルの街に出て、日用品の買い出しやおみやげ店を見て回った。

 現地時間午後9時15分、日本時間11時15分より、FMラジオ小松「美の館へようこそ」に携帯電話で生出演した。
パーソナリティは村井玲瑚さん。村井さんはピースボートに乗ってからの私の一連のブロク「がまがえるのつぶやき」を読んでいてくださって、その内容に沿ってインタビューしてくださった。
15分間はあっという間でした。うまく答えられなかったところもありましたが、良い経験をしました。
村井さん どうもありがとうございました。

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2015年10月25日 (日)

コスメル

 10月24日から25日の午後4時まで2日間コスメルに寄港した。
 コスメルは、メキシコ ユカタン半島の東側にあるマヤ人の島である。マヤ人は4世紀からこの島に住んでいて15世紀には4万人が住んでいたが、スペインが持ち込んだ天然痘によって人口は急減し1510年には30人しか住んでいなかったという。
1848年にユカタン半島でマヤ人の大反乱があり、それを逃れて避難した難民がこの島に定着した。現在の人口は1万人であり、主な産業は観光である。

10月24日
 TさんとMrサムライことSさん夫妻の4人で自由行動をとった。
 午前中はタクシーを2時間借りきって市内を見学した。料金は一人15ドル、行ったところはコスメル博物館、カソリック教会、中央市場、チャンカナブ公園付近の海岸線の景観の見学等である。
■コスメル博物館
 島の歴史が写真、絵、模型でわかりやすく解説されている。
■中央市場
 島民の台所、狭い場所に衣料から食品まで色んな種類のものを売っている。野菜ショップを散策しドライフルーツを買った。その後食堂のカウンターというより屋台といった感じの所で現地の人が食べているタコスを食べた。タコスは、とうもろこしのヤンに色々の肉や野菜を煮込んだものから欲しいものを選んでスパイシーやトウガラシをつけて食べる。ビールと合わせて食べると美味い。屋台らしき所で日本人4人が並んで食べていると、現地の人が回りからジロジロ眺めている。ここまで日本人が来るのが珍しいのだろう。

 市内見学の後、タクシーで潜水艦で海中探訪をするアトランティスの駅まで送ってもらった。潜水艦アトランティスは60人乗り、丸い窓から海中の様子を眺める。料金は100ドル。スペイン語と英語の説明があるが、当日の見学者の6割はスペイン語、4割は英語であった。スペイン語の客は主としてメキシコ、英語の客は主としてアメリカフロリダよりカリブクルーズで来ているらしい。日本人は我々4人だけだった。

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 タグボートで沖へ出て、そこで潜水艦に乗り換えて約1時間水中見物をする。潜水艦は海底100フイート(約33メートル)まで潜る。

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 海底の眺めはプランクトンの死骸なのか白い土で覆われていて、その間にサンゴ礁が生えていて魚が泳いでいる。魚の種類はかなり多い。途中ヒラメに似た魚の大群にもであった。100ドルの価値はあったと思う
 

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2015年10月20日 (火)

まんなか発表会

 ピースボートには、自主企画を含めて色んなカルチャースクールがある。私は、その中で太極拳、ノルディックウォーキング、サルサダンス、社交ダンスに入っている。
地球一周のまんなかにきた18日、これらのカルチャースクールの中で“ステージ部門”と“展示部門”の発表会があった。“ステージ部門”としては、バンド演奏、ウクレレ、ギター、ゴスペル、コーラス、太鼓、社交ダンスなどがある。
 私は、この中の社交ダンスの発表に出た。曲目は“ワルツ”。“ワルツ”といえば、映画“王様と私”、新春テレビの“ウインナーワルツ”が、脳裏に浮かんできて“自分もあんなに踊れたらいいな”と思っていた。
 そういうわけで、社交ダンスのスクールには、途中のワルツのレッスンから入会した。1ケ月程、毎日1時間ほどレッスンを受けてなんとか踊れるようになった。
 所が発表会に出る相手を決めるのが大変。女性の仲の良いグループの一人の人に申し込むと、自分が浮き上がるのを警戒して受け付けない(出場しない)のだ。どうしようかと思っていた所、昼食の時に以前一緒に練習したことがあるTさん(83歳)より、組んで出場しないかと誘われた。彼女は、過去にダンスの経験があり、平常は杖を持って歩いているが、ダンスになると背筋がピンと伸び、ステップも確かである。
 発表会当日の場所決めのくじびきで、第一グループの前列中央が当たった。かなり目立つ位置である。発表会当日は、少し緊張したが一応間違えなく踊り終えた。しかし、姿勢が今一つで気になっていたが、壇上から降りると、お世辞とは思うが、知り合いの女性2人から“西村さん、かっこ良かった”と言われた。また、また相手のTさんにも“お上手ですね”という声がかかった。そこで、はじめて“ああ、良かったんだ”という実感が湧いてきた。
 こういう発表会は、組み合わせについて何かと噂が立つものである。私の場合、相手は歳が離れていてダンスが上手な人で、色んな意味でベストな組み合わせであったと思います。Tさん、どうもありがとうございました。

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2015年10月17日 (土)

シリア難民支援チャリティオークション

 シリアから多数の難民が、小さなボートでトルコに渡り、そこから目的地に向かう。地中海を渡る途中で船が転覆し子どもが浜辺に打ち上げられている記事が新聞に出て国際的な問題となっている。このような背景から、9月27日、トルコのクシャダス寄港の前日、ピースボート主催のシリア難民医療支援チャリティオークションが開催された。

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 オークションの商品自体は、余り真面目なものではなく、楽しく何かをやろうという主旨のものである。例を上げると「好きな港の出港式で銅鑼を鳴らす」「ピースボートのクルナビ(船内テレビ)に出演する」「水彩画のプライベートレッスン」「○○さんとウキウキデート」「カラオケ貸し切り3時間」「船長と一緒にディナー」といった内容のものが60位ある。
 これは難民支援であるから、余り慎重に考えない、「3000円!」「5000円!」「10000円!」と言ったように成り行きでポンポンと声がかかる。声が止まった時が落札である。私は最初に「専属カメラマンの個人指導」に応札したがオークションの金額の出し時が分からず落札に失敗してしまった。次に決めた商品では、いくらになったら声を出すが作戦を立てて応札した所、見事落札に成功した。
 商品は「CC(=コミュニケーションコーディネーター(通訳))11人とディナー」、落札価格は1万円である。その日の落札最高値は13万円で商品は「好きな海域の海図(船長及び航海士のサイン入り)」であった。
 この日のオークションの落札合計額は約100万円、その全額が、次の日トルコで関係団体に届けられた。トルコの新聞にも出たそうである。

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 所で、「CC11人とのディナー」を落札はしたが、私一人が11人と一緒にディナーをしても様にならない。考えた結果、少し英語ができるパッセンジャー10人を集め、原則として英語でディナーをすることにした。おりしも10月16日は、月1回のドレスコードの日で、各人は正装して食事をとることになっている。また、この日はマスカレードの日でもあり、ヴェネチアで買ったマスカレード(仮面)をつけてディナーやダンスパーティに参加することになっている。
 10月16日午後7時30分より、3つのテーブルに分かれてマスカレードをつけて原則英語で懇談しながらCCとディナーをした。話をしてみると、CCの人達はメキシコ、オーストラリア、シンガポール、マレーシアといった英語又はバイリンガルの国から日本の大学にきて日本語を学び、通訳になった人達であることを知った。
 実際には、日本語も入り混じったディナーとなったが、日頃接することのできない貴重で楽しいひとときを過ごすことは出来ました。私からディナーに誘ったパッセンジャーの人達からも「楽しかった」とお礼を言われ、嬉しい気持になりました。

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2015年10月16日 (金)

ポンタ・デルガータ(ポルトガル)

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 8月21日、横浜を出てから54日経ち、10月14日は丁度地球一周の旅の中間点になる。この日のポンタ・デルガータに寄港した。
ポンタ・デルガータは大西洋上の欧州よりの地点にあり、ポルトガル領アソーレス諸島の首府である。16世紀に海賊の攻撃に対する要塞として建設され、その後18世紀にポルトガルの航海の中継地として発展してきた。

 この日は、乗客の多くはサン・ミゲル島の自然体験ツアーに出かけた人が多いようだったが、私は波平でおなじみのSさんご夫妻と社交ダンスのM先生の4人でポンタ・デルガータの街中を散策した。

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 9時に船を出て、港のシャトルバスで降りた所の直ぐ近くに要塞がある。要塞の見学料金は3ユーロ、要塞の中に入ると隊員が出入りしていて現在も使用している。海に向けて大砲・機関銃などが並んでいて、中は大きな洞穴になっていて作戦会議用の会議室もある。最新のロケット砲も陳列されていた。
 要塞を出て港をぶらぶらしていると、サイトシーイングバスの停留場に出たので、バスで街中を一周した。バスの案内の説明は英語だけだったので、よくわからなかったが、オープンバスなので外を眺めていると大体のところは分かる。

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 バスで一周りした後、市内を散策した。ポンタ・デルガータはポルトガルの古い地方都市という感じです。坂の多い石畳の道路沿いにポルトガル風の家が並んでいる。街中は信号用の電柱はなく、街並みが綺麗です。

 歩いていると市場に出た。果物やチーズが並んでいる。パナップルが沢山あり試食してみるととても美味しい。1ケ2.4ユーロ(約300円)である。ここの特産はパイナップルとチーズということだった。
パイナップルを買おうと思ったがナイフを持っていない。ナイフは売っていないのか聞いて見ると通りの向かいの店に売っているという。向かいの店まで行ってナイフを買ってからパイナップルを買った。なお、ナイフは、コルクの栓抜き付きのもので24ユーロ(約3000円)でした。こちらの方が高くついた。

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 昼頃になったのでレストランを探す。現地の人に聞いて港の近くの魚料理が旨いというレストランに入った。ワイン付きのその日の特別メニューをもらった。12ユーロ(約1600円)ということを考慮するとまずまずでした。

 レストランを出て、スーパーマーケットで買い物をした後、仲間と別れそれぞれ別行動とした。一人で、あちこち歩いて見たが狭い街なので、どこかでピースボートの乗客と顔を合わせる。3時半ごろに散策を切り上げて船に帰った。

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ご結婚3周年を船上で祝う

10月12日
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 先のブログで紹介しましたが、12日午後6時より、「Yさんご夫妻のご結婚3周年船上で祝う会」を開催しました。
 Yさんは、大手銀行に勤められていましたが、50歳代初めに奥さん癌でなくされた。看病と仕事の疲れから会社を退職され、しばらくして自営業を立ち上げられた。同時期に大手保険会社に勤められていたが、ご家庭の関係で離婚され、同じく癌を発病された親族の介護をしているSさんと知り合った。お二人は、お互いの好かれるものがあり、3年前に再婚されたが、結婚式や披露宴はやっていないとのことでした。先月一緒にバーベキューをやった仲間が、偶然そのことを知り、船上で結婚式を兼ねた3周年を祝う会を開催することが決まった。
この会の幹事及び企画部長はTさんですが、私もその一員としてお手伝いをすることになった。私は、単にプログラムの作成・印刷・配布だけですが、他の皆さんは、司会、立会人としてご夫妻の経過の聞き取り挨拶原稿の作成、花嫁のベールづくり、サプライズイベント、プログラム全体の配置や料理・BGM、花束の準備など皆で分担し、手作りで準備しました。

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 当日8階カサブランカレストランの半分を貸し切って式を行った。

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2015年10月11日 (日)

ジブラルタル

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ジブラルタルは、イベリア半島の南東端に突き出た小半島で地中海から大西洋への出口である。8世紀よりムーア人(イスラム)、16世紀からスペイン、18世紀よりイギリスの海外領となっている。人口は約29,000人。
 午前7時にジブラルタル港に入港したが、あいにくの雨。これまで15の港を寄港しているが雨となったのは始めてである。
 午前中は、ウォーキングによるジブラルタルの街の散策ツアーに参加した。

最初に行ったのは、キングスバストン。
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 ここは1700年頃、スペインがオランダの艦隊に破れ、国力を落とした時すきにイギリスが占領した。その後、スペインはジブラルタルを奪回しようとフランスと組んで10万の兵でイギリス軍が立てこもる要塞を攻めた。守るイギリス軍は5千人であったが要塞を守りきりイギリス領となった。キングスバストンは、その要塞を保存したもので、当時の戦争の様子を描いた絵や、大砲・砲弾などが陳列されている。

街並み散策
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 キングスバストンからヤスメート広場まで説明を受けながら通りを散策した。

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ジブラルタル人の人種構成は、イギリス、スペイン、イタリア、ユダヤ、オランダ、インドなど多岐にわたる。それぞれの家の作り方も少しずつ違う。宗教・文化の違う人が融け合いながら一つの社会を形成している、いわゆるモザイク社会である。長い間、これらの人が混じりあいながら生活してきたので独自の言葉もできている。「ヤニト語」というそうで、これは英語、スペイン語、オランダ語、ポルトガル語が交じり合ったできた言葉である。
 ここはイギリス領であるが、イギリス人は全体の2割である。説明者の現地イギリス人に“ジブラルタルは独立する気はないのか”と聞いて見たら、キーとなって“ジブラルタルは100%イギリスである。独立する気は全くない。なぜなら独立の意思を問う住民投票の結果99%の住民がイギリスにとどまることを選んでいる”という返事がきた。

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ひと通り散策を終え広場でコーヒー飲んでいると雨が大降りになってきた。
午前中で切り上、そのまま船に帰った。

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2015年10月10日 (土)

バロセロナ(スペイン)

 バロセロナは、スペイン第二の都市で人口約160万人である。バロセロナは紀元前に築かれた街で古い歴史を持っている。1991年に開催されたバロセロナオリンピックが有名である。

 この日は、飲み友達のTさんと思い切り二人で飲もうということになり、ツアーをキャンセルして、自由行動にした。
 
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午前8時半に船を出て2階がオープンになっているサイトシーイングバスに乗った。コースは3コース、ステーションは全部で40あるが、どこで降りて、また乗っても自由である。乗るとイヤホンを渡され、イヤホンを指定のジャックに差し込むと12ケ国語の中から、聞きたい言語を選んで説明を聞くことができる。各停留所でどんどん乗ってくるが、また、降りる人も多い。
 午前9時に港のAライン始発点より乗り、ペオデリアでBラインに乗り換えてサクラダファミリアで降りた。

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サクラダ・ファミリアは建築家アントニ・ガウディが設計した壮大な教会であるが、壮大過ぎて生存中には完成せず、現在も工事中である。景観は独特のものがあり、天にそびえる荘厳さを持っている。バロセロナには、その他にもガウディが設計した建築物が多数あり、アントニ・ガウディ作品群として世界遺産に登録されている。

 サクラダファミリアからは、次のステーション、ガレシアまで歩いて散策した。ここは下町らしく、パン屋さんや日用品店、小さなスーパーマーケットが並んでいる。
ガレシアから、また、バスに乗って、バロセロナのショッピン街の手前で降り、通りを歩いた。私と違ってTさんはセレブである。氣の入った高級ブテックや化粧品店があると覗いていた。

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昼頃になったので、レストランを探したが、ここはビジネス街ということで、なかなか良い店が見つからない。繁華街に中心地ペデリアまで来ると、品のよいしゃれたレストランを見つけた。入ったのは12時40分頃、しかし料理を出すのは13時以降だという。当地ではシェスタと言って、14時から16時まで休息を摂る習慣があり、店の方も開業時間をシェスタに合わせているのだろう。
正式の開店まで、地ビールを飲んで時間を過ごした。
 13時近くになり、ウェーターに店のオススメを聞いて、サーモン、ピザ、ロシアンサラダとカタロニアワインを注文した。スペイン人になった積りで、ゆっくり飲んで食べて28ユーロ(約4000円)、料理もワインも美味かったので期待以上です。

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マルセイユ(フランス)

10月8日
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 マルセイユは、パリに次ぐフランス第2の都市である。近郊の小都市を含めると人口約135万人で、貿易だけでなく、鉄鋼・化学・プラスチック・食品等の工業も発達している。
 私は、暑い地域から急に寒いヴェネチアに寄港し、その後また温かい地域へと寒暖が激しさから風邪をひいてしまった。私だけでなく船内では風邪が大流行している。
 船は7時にマルセイユに入港した。午前中は、他の乗員は観光に出かけたが、船内で休養していた。

 午後からバスでショート観光に出かけた。見学したところはロンシャン宮、ノートルダム・ド・ラ・キャルドバルシィア聖堂、旧港付近の散策である。
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あいにく、バスのマイクが故障して、後方の席に座っていたので説明が全く聞こえなかった。しかたなく、バスの窓から外を眺めていると、通りを高齢の夫婦が腕を組んで歩いてきて立ち止まって頬を寄せ合い軽くキス、また、腕を組んで歩いていった。なかなか様になっている。日本人では、こうは行かないだろう。

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 旧港の散策では、水上・地上合同の消防隊の式典にであった。隊員はビシッと整列していて隊長が30分以上訓話していたが、全く姿勢を崩さなかった。これは、日本の消防隊以上だ。後で聞くと、マルセイユの消防は欧州一とのことでした。

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2015年10月 9日 (金)

バレルモ(イタリア、シチリー島)

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10月6日 7時シシリー島のバレルモに入港した。前日は、船長のサービスで船を、噴火をしている島(名前忘れました)まで遠回りしてくれて桜島のような島が山頂から煙を上げているのを見ることが出来ました。

パレルモは人口約66万人、シチリア最大の都市である。紀元前250年頃にフエニキア人によって築かれた。その後、ローマ、イスラム、ノルマン、フランス、スペインと色んな民族の統治を受け、1860年に南イタリアに併合された。
“ゴッドファーザーの故郷”として有名であるが、ゴッドファーザーが生まれたのも、このような虐げられた民族の自衛手段であったのかもしてない。

我々の船はパレルモの街の直ぐ横に着岸したので、午前中はウォーキングツアーに参加した。コースは、港~ポリアーチ広場~ノルマン王宮~パラティーナ礼拝堂~クリオアット・カンティまで、現地案内人の説明を受けながら散策した。
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コトル(モンテネグロ)

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10月4日 午前6時にモンテネグロのコトルに入港した。この地はノルウェーから連続するフィヨールドの最南端ということで、急峻な山の麓に街がある。
モンテネグロは、元はユーゴスラビアであったが、2007年に国民投票で独立した。人口は約60万人である。モンテネグロ人は背が高い。トップはオランダで、モンテネグロが二番目とのことである。

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午前中は、バスでコトルから約1時間、世界遺産ブドファの観光に出かけた。
途中、テニスランキング上位のモンテネグロ出身のステファノビッチ(名前が間違っていたらご容赦ください)が、3日間借りきって結婚式をあげたという風光明媚な島の横を通った。この一帯は、世界的は高級別荘地となっているとのことでした。

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ブドファの街は5世紀に建設された街である。ドブロニクスと同じで、周りは城壁に囲まれており、その中に石畳の小路と住宅や商店がある。但し、城壁を作ったのはヴェネチアの統治時代とのことでした。ドブロニクスを小さくしたという感じの街である。

1 2時過ぎにコトルに帰った。コトルも城壁で囲まれた古い街である。
午後はTさんと一緒に市内を散策する予定であったが、二人でランチの後、私は城壁に登りたいといったが、Tさんはショッピングをしたいようなので、そこで別れて別行動。

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私は、城壁の上(155m)まで、1300階段を登ったが、ビールとワインを飲んだ直後だったので、かなりキツかった。

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でも、頂上から眺めたコトルの街は、フィヨールドということでしょうか。最高でした。

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2015年10月 4日 (日)

ドブロウニク(クロアチア)

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 午前6時にドウロウニクに入港した。ドブロウニクは世界遺産“アドリア海の真珠”と呼ばれる城壁に囲まれた美しい街である。現在、人口は2万8千人であるが、城壁内で生活している人は約2000人とのことでした。
ドブロウニクはナポレオンに征服されるまで、ヴェネチアと並ぶ貿易都市であった。中世、オスマン帝国の侵攻に対してヴェネチアは海軍力で対抗したのに対して、ドブロウニクはトルコの懐に入り込み情報提供等の貢物により独立を守った。
1990年、ソ連邦の崩壊後、ユーゴスラビアから独立を宣言し、ユーゴスラビア軍から砲撃を受け、街が破壊された終戦後、視認が7年をかけて破壊された箇所を元通りに修復した。市内見学の時に被弾の後や修復の後の説明を受けた。

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 午前中は市内見学でフランシスコ修道院から大聖堂まで旧市内の説明を受けながら散策した。

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市内の路はすべて石畳み、城壁まで階段状にびっしり家が並んでいる。住宅の間は細い路地のようになっており、その両側に路地のはみ出した形で店が並んでいる。現地案内人の説明では、上下水道完備で不自由はないが、一つだけ困ったことがある。それは(隣近所の)ドラマが無料で見られることである、と言っていた。

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 大聖堂で一人ツアーから離脱して、昼食をとった後、街を囲んだ城壁を一巡りした。入場料は100クローネ(約1900円)で、少し高いような気がした。それでも観光客で一杯だ。
城壁の遊歩道を街や外側の海や山の景色を眺めながら登ったり下ったりする。紺碧色の海に赤いレンガの家並みが美しい。

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 城壁の後は、街の外れのケーブルカーで山頂に登った。山頂は人で一杯だったが、山頂から坂を降りて別棟に登ると誰もいない。眼下に城壁や海が一望できた。素晴らしい眺めを一人で独占できたような気分になって疲れも吹っ飛び、嬉しさがこみあげてきた。

その後は、市内バスでクルーズに帰った。時計を見ると16時30分だった。

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2015年10月 3日 (土)

ヴェネチア

 ヴェネチア共和国は10世紀から16世紀にかけて、ヴァスコダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見するまでヨーロッパと中東の交易の中継地として、アドリア海周辺を支配していた。交易だけでなく、軍事や陸地の農業や林業も支配していたとのことです。
ナポレオンに征服されてから滅亡し、現在は、当時の勢いはなくなり、専ら観光を主な産業としている。
 今回寄港したのは、ヴェネチアの市街で、潟の上に木柵を土台として街が建設されている。現在の人口は約26万人である。

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 10月1日午前7時に入港した。この地は北緯45度に位置しており、日本で言うと礼文島と同じ緯度である。当日の気温は14℃から20℃とこれまでとうって変わったように寒い。
 午前中はショート観光コースに参加した。クルーズターミナルから水上バスでサン・マルコ広場まで行きドッカーレ宮殿、サン・マルコ寺院、ガラス工房を見学した。

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■ドッカーレ宮殿
 ヴェネチア共和国の歴代の総督が住んでいた所である。評議会の部屋や大会議室、舞踏会上などがある。壁から天井にかけて当時の一流の絵師が描いた絵や彫刻が並んでいる。

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絵の内容は、肖像、宗教画から春画のようなものまである。

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舞踏会場に世界一大きいという絵があった。絵の内容はキリスト教の天国の楽園の様子を描いたものであった。

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■サン・マルコ寺院
 聖マルコの遺体を納めるために建てられた寺院である。内部のモザイクが美しい。午前11時ころに入ったが、丁度、その頃は外から太陽の光が差し込み、天井が金色に輝いて見えた。

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