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2015年9月30日 (水)

ピレウス(アテネ)

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 9月28日午前7時、ギリシャのプリウスに入港した。クルース船が多数停泊している。我々の船を含めると全部で15隻はあるようだ。さすが観光都市だ。
プレウス港は、紀元前500年、アテナの海上貿易及び軍事基地として建設されたもので、アテネより車で20分位の距離にある。

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 午前中はツアーをとっていなかったので、地下鉄ピレウス駅まで歩いて行き、途中で港の風景や魚等の市場を見学してきた。

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12時30分より、通訳なしの英語ガイド付きのショート観光コースに参加した。見学したところは、アクアポリスの丘、バルテノン神殿、第1回目のオリンピックが開催されたパルティコナ・スタジアムである。英語ガイドが一生懸命説明してくれるが、私の聞き取り能力が低いのと、発音に訛りがあり半分くらいしかわからない。アクアポリスの丘で、下に見える神殿を指さして「テンプルオブズー」というので、動物の神殿か、珍しいものがあるものだと思っていたが、後で、一人でその場所に行って見ると何と「ゼウス神殿」のことだった。
 アクロポリスの丘はどこへ行っても観光客でいっぱいでガイドの話も十分に聞き取れないので余り面白くなかった。予定と違ったが、第1回目にオリンピックが開催された競技場でバスを離脱した。30人余りバスであったが、離脱したのは2人で、私は近辺の地図を持っておらず、どうしようかと思っていると、もう一人の人(東京の人)がアテネの地図を持って降り、地下鉄シンタグマ駅まで案内してくれた。シンタグマ駅からの街の地図は持っていたので、ここで別れて無名戦士の墓、ゼウス神殿、キダシネオン通りを散策した。

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無名戦士の墓 衛兵の交代

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2015年9月27日 (日)

クシャダス(トルコ)

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 9月27日午前7時、トルコのクシャダス島に入港した。クシャダスは、紀元前11世紀からアテネ、スパルタと並んでエフェソスという都市国家があったところである。都市国家としてはアテネよりも古いとのことであった。
 ピースボートの乗客の多くはエフェソス遺跡の見学出かけたが、私は、クシャダスより更に奥に入った「エレン山トレッキングと地元の村訪問」というコースに参加した。

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朝8時半にバスに乗ってエレン山の麓に向かう。このコースの参加者は全部で30名である。過去に山登りをしていた人や山女が多いようだ。

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 エレン山は標高350m、麓から歩いて約7km程度、なだらかな山道である。山には、オリーブ、どんぐり、山梨など沢山の種類の木があるが、どれも低木である。オリーブが最も高く高さ2m位ある。その理由を聞くと、雨の量が少ないのと、空気が乾燥しているので山火事が多くて焼けてしまうので高い木がない、とのこのであった。日本にはない色んな花が咲いていて沢山の写真を撮った。
天気は晴天、見晴らしもよく、清々しい気分でした。

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 山から降りて、100人程度の小さな村のレストランで昼食をとった。レストランと言うよりは地元の村の男性のたまり場である。昼から数人の男がコーヒーを飲んだり雑談をしたりして時間を潰している。これは男が家にいると邪魔になるので家から追い出され、ここに集まる。それが習慣になったとのことである。これはトルコだけではなく南欧での同じ習慣であることでした。
 昼食はトルコの家庭料理で、野菜やチーズの入ったヤン、野菜、羊肉の串焼き、オリーブの肉をくるんでウインナー状にして焼いたもの、ライスでした。赤ワインをもらったが、これとよく合い旨かった。しかし、ライスだけはパラパラして食べられなかた。

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 27日は、トルコの特別の休日で学校も休み、子どもの沢山集まって来た。村人の交流ということで、簡単なプレゼントをして、前日に間に合わせで習ったトルコ語で話をするが、よく通じない。英語を話せる人が殆どいない。それだけ田舎なのだ。
ウクレレを持って来ている人がいたので、お礼にウクレレに合わせてみんなで日本の「ふるさと」を歌った。
こういうのもたまには良いものだ。

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2015年9月26日 (土)

サントリーニ島

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 9月26日午前6時、ギリシャのサントリーニ島に入港した。
サントリーニ島は、昔は一つの島であったが、紀元前1700年に島の中央が噴火して大爆発を起こして5つの島に分かれている。爆発の威力は広島・長崎の原爆の数万倍と聞いた。
面積は17km2、人口は約13,000人である。

26日午前中はショート観光コースに参加した。
見学した所
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■アクロティリ遺跡
 1960年より発掘が進められている。現在全体の3%が発掘された段階である。紀元前1700年に、大噴火を起こした時に風北側に岩石が飛んだが南側へは落ちず、その後火山灰だけが降り積もった。その量は10m位あるとのことである。
この地には紀元前3000年位前からかなり高度の文明が栄えていたが、BC1700 年の大噴火でそのまま埋もれてしまった。現在その一部であるが、建物、上水道、下水道、集会場、市場などが発掘されている。発掘され場所は建屋を作って保管されている。

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この文明はミネア文明と呼ばれていて、文字や建屋内の描かれた沢山の壁画が発掘されている。まだ、内容は完全に解読されていないが、その状況を1時間に渡って詳細な説明を受けた。その内容はギリシャ伝説に出てくるアトランティスと似ており、アトランティスとはミネア文明のことだったのではないかと言われている。

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■市内観光
 観光バスでフィラやアルゴス村を見学した。崖の多い土地に四角形又は丸形の白壁に青の屋根の家が建っている。キクラ様式というそうで、この地方の気候に合うように厚い壁と小さな窓が付いている。景勝地になるとバスから降りて写真を撮るのが観光の目玉である。
この地は、雨は降らないが、霧が出たり消えたりする。植物は主に霧から水分をとっている。代表的な作物はオリーブとぶどうである。

自由行動
 バスツアーは午前中で終わったので、午後からは一人でフィラの街を散策した。
この日は、我々を含めて5隻のクルーズが停泊していて、街の中は観光客でごったがえしている。時々お互い声を掛けあって見るとUSA,オーストリア、中国からの旅行者が多いようだった。

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 歩いていると、あるホテルの庭の綺麗なブーゲンビリアの花が咲いていて、写真を撮らせてもらおうと庭に入ると犬が飛び出してきた。決して吠えないのだが、庭から出るまで飛びかかってくるが、噛み付くことはない。なかなか良く訓練されていると感心した。

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 街を一周りして、疲れたので広場に面したレストランに入り、スパゲッテイナポリタンと白ワインを注文した。これにパンが付いている。スパゲッテイは日本で食べているのと同じ味だった。
隣にギリシャの太ったおばさんが注文しているのを見ているとすごい量だ。それも全部食べずに半分残して出ていってしまった。こんな生活をしていれば太るし、年金生活者だったとしたらギリシャの財政が破綻するのは無理もないと納得した。
 白ワインは、メニューではグラスの写真がついていたので、グラスだろうと思っていたら、2合ほどのカップに一杯のワインにおちょこがついてきた。飲むとうまい。時間はたっぷりあるので、街中の様子を眺めながら全部飲んでしまった。
船に帰るまでは、足元がしっかりしていたのだが、船室に入るといっぺんに酔いが回って、そのベッドに倒れこんでしまった。寝ているうちに両足が引きつって痛いので目が覚めた。
後で聴くと、ワインはアルコール度数が13%あるという。ワインだけで水を飲まなかったのが原因だろう。
でも、楽しかった。

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2015年9月25日 (金)

スエズ運河航行

 9月20日、自衛隊の護衛艦から離れて紅海に入り、スエズ運河に向かって北上する。9月24日の朝早くスエズ運河の入り口に着いた。

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 朝4時に案内の放送がかかり、眠い目をこすりながらこの日に限って開放された7階前方のデッキに向かう。もうすでに7階前方のデッキには人が一杯で写真が撮れない。屋上の10階のデッキに登ると運が両岸の完璧や街の灯りがとても綺麗に見えた。

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船は時速15km程度でゆっくり進み、午前10時頃、50年前にODAで五洋建設が建設した「日本-エジプト友好の橋」の下を通った。

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 昼頃、スエズ運河を通りぬけエジプトのポートサイトに出た。本来なら、ここに寄稿してピラミッドなどを見学する計画であったが、治安の関係で、そのまま通過しギリシャのサントリーニ島に向かう。地中海に出ると、日ざしは強いが風が爽やかに感じた。

 この日は“スエズ運河航行記念”ということで殆どの船内イベントは休止。昼はビアガーデン、夜はダンスパーティでした。

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2015年9月23日 (水)

船内バーべキュー

 クルーズでは週1回程度の頻度でデッキで、1テーブル(6~10人単位)で貸切制のバーベキューを提供している。
 9月18日、人数が足りないということで、たまたま声がかかり間に合わせのグループの一員としてバーベキューに参加させてもらった。行って見ると男5人、女4人、夫婦が2組、後は単独乗船の人だった。

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 生バンドが入っており、アルコールが入って、カントリーやラテンのリズムに合わせてバンドの前で踊りだした。びっくりしたのは、自分達のグループは踊り好きが集まっていたようで、テーブルは8つあったのだが、踊っていた人の半数は自分たちのテーブルの人で占めてしまった。

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 結構楽しかったので、もう一度同じメンバーで会おうという事になり、23日晩、 “スエズ運河航行前夜祭”として居酒屋波平でテーブルを囲んだ。この時に、お互いの自己紹介をした。東京が4人、徳島2人、神奈川1人、富山1人、石川1人の9人で、選択定年でサラリーマンをやめ自営業をやっている人、小学校の先生を定年退職した人、市役所を定年退職した人など、どの方もこれまで一仕事を終えて、ほっとした気持ちでこのクルーズに乗った人である。
 グループの中に3年前に奥さんを亡くされたのだが、乗船前に丁度再婚をして船に乗ったという夫婦がいた。話をしているうちに船内で今一度結婚式をやり、皆んなで祝福しようということになった。

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2015年9月19日 (土)

自衛隊の護衛艦に守られて

 9月14日にカタールを出港し、再びホルムズ海峡を通ってオマーンの横をまわって紅海に入りギリシャのサントリーニ島に向かう。当初はエジプトのポートサイドの予定であったが治安の関係でサントリーニ島に変更になった。サントリーニ島に着くのは9月24日の予定である。
 インドのムンバイを出てから海賊対策のため窓には明かりがもれないよう黒い布が貼られ日没後は夜明けまでデッキに出ることが禁止となった。
 9月16日、海賊の根拠地に近いソマリアに近づいた時点で自衛隊の護衛船団に組み込まれた。

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16日朝、看板で太極拳をしていると上空にヘリコプターが舞い、その後、護衛艦が追い着いて来て前にクルーズの前に出た。

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16日朝は、我々の船1隻だけだったが、昼ごろになると貨物船4隻が加わり、2列縦隊、前後に護衛艦がつくという7隻の船団となった。船の間隔は1カイリ(1.8km)である。
勿論、この船団への参加は、日本を出港前に防衛省に申請し、各船は何時にどの地点に集合するよう通知を受けているものである。原則とした日本の船であるが、外国の船も依頼があれば護衛船団に加わることが許可されるとのことでした。
20日4時頃、紅海の入り口に入った時点で船団が解除される予定である。
 現在、安保法制で国会が揉めているというニュースを聞きましたが、自衛隊は海外で、こんなことをしている、ということを実感しました。

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2015年9月15日 (火)

ドーハ

 ドーハはカタールの首都で人口は130万人、ドバイと同じくカタールの人はその2割、残りはインド等の他国からの出稼者である。日本ではサッカーのドーハの悲劇で知られている。2022年にはドーハでサッカーのワールドカップが開催される事になっている。
ピースボートは、今回はじめてドーハに寄港した。カタール政府が日本及びピースボートの趣旨に賛同して午前中に歓迎イベントを開催してくれる事になり、14日は乗客約1000名が参加した。

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一週間前に特設会場のテントが設営されたと聞いていたので暑いのではないかと心配していたが、行って見ると広い会場で中はクーラーが利いていて快適な環境になっていた。

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テント内にはカタールの民芸品の陳列及び作り方のデモや希望者にタトーを描いてくれたりしていた。また、中央の舞台ではカタールの踊りが披露されていた。
 式典が始まってカタールの文化観光大臣の歓迎挨拶があった。カタール文化観光大臣の挨拶では、日本に対して欧米以外で最初に独立国として経済発展したことや、戦後の平和主義を高く評価していることが強調されていた。

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その後ピースボート側の返礼の挨拶があった。ピースボート側の挨拶の中に、今回88回クルーズであるが、100回に向けて世界一の省エネ船(エコシップ)を建造することを計画中という話が出てきた。
 その後、ピースボート側より返礼としてコーラス「東北大震災に際して歌われている歌」、太鼓、よさこいソーランなどが披露された。

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若い子が歓迎イベントに向けて練習していることは知っていたが、かなりのハイパフォーマンスだったと思う。

11時30分よりバイキング形式でアラビア料理の接待を受け、12時30分に終了した。


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2015年9月14日 (月)

ドバイ 自由行動

9月12日は門限なしということで、中高年者の人の殆どはディイナー付きやサファリコースのツアーに出て行ってしまった。
私は申し込みしていなかったので、一人取り残されたという感じになってしまった。とはいうものの、一人で自由行動をしてみたいという思いもあったので、午前の観光ツアーの後は船に帰って涼しくなるのを待ち午後4時頃から出かけた。

クルーズターミナルから市内まで歩いて20分位とのことであるが途中には何もなく暑いので自由行動に出かける人はタクシーを利用するよう案内がでていた。
ここでは、殆どの場所で米ドルやカードを使えると聞いていたのでメトロ(地下鉄)用に10ドルだけ現地通貨に両替して出かけた。

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ターミナルでタクシーをつかまえ行き先をいうと50ドルだという。10ドル弱と聞いていたので、びっくりして高いといったが、運ちゃんは聞き入れない。どこから来たのか聞いたらパキスタン人だという。乗ってから気がついたがメーターもついていない。ドバイ・モールまで50ドルでどうか、といってきた。当初は、近くの駅までタクシーで行き、そこからメトロでドバイ・モールまで行くつもりであったが、仕方がないので40ドルでドバイ・モール(車で30分位の距離)まで行ってもらうことにした。
それにしても、とんでもない雲助につかまったものだと嫌な気分でタクシーに乗っていた。ドバイ・モールについて40ドル渡すと代金を受け取ってニヤリと笑った。どこか変だ。後で船に戻ってルームメートに話をすると「それは米ドルでなく、現地通貨のディルハムだったのだろう。現地人は現地通貨をディルというが、ドルとよく似た発生をするので区分けがつかない。自分のホテルでビールを注文しようとしたら140ドルと言われてびっくりした。よく聞くと140ディルだったようだが、よくわからなかったので注文しなかった」と教えてくれた。
なんとメーターなしで高く設定されていた上にディルとドルを間違えて3倍分の金額を余分に支払ったことになる。帰りはこれに懲りて、地下鉄(メトロ)で近くの駅まで帰りメーター付きのタクシーを拾って船まで帰った。

なお、メトロは初乗り料金を含めて6ディル、リピートの場合は2ディル(1ドル程度)でした。メトロは東京の地下鉄と殆ど同じです。行き先は3ヶ国語で放送され、最後に英語が出てくる。色んな国の人が乗っているが、皆若い。と言うよりはこの国では高齢者はドバイ人だけで、ドバイ人はメトロなんかに乗らないのだろう。皆スマートフォンを持っているが、日本のように車中でスマホに夢中になっている人はいない。

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ドバイ・モールは最近建てられたドバイ一のショッピングモールでスケールが大きく清掃も行き届いている。時間があるので店を順番に冷やか半分で見て回った。
一人で歩いていると、時々「ニイハオ」と呼びかけてくる。やはりここでも中国人が爆買しているのだろう。

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3階には日本のソニー、パナソニック、HITACHI、YAMAHA、CANONなどのメーカーの店がズラリと並んでいる。但し、店員はコーリアンや中国系の人が多い。紀伊國屋書店も出店して店の中に入ると日本での書籍陳列とほとんど同じ方法である。但し陳列されている本は洋書で店内にかなりお客が入っている。近々楽天もOPENするという掲示もでていた。日本も中々やるもんだ。

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モールからメトロ駅まで約1km冷房付きのエスカレータでつながっている。ドバイ・モールのレストランで、一人で夕食をとってからメトロ駅に行った。ここから冷房付きの通路から外に出て歩いて世界一高い(高さ840m)のドバイタワーと噴水ショーの写真を撮りに行った。

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ドバイタワーで、展望台に登りたいといったら、もう一度ドバイ・モールに戻ってドバイ・モールの会員権を買ってこい、120ドルだという。高いのにびっくりして登るのをやめてしまった。後で考えると本当は120ディル(4000円程度)だったのだろう。それにしても高い。

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まあ、きれいな夜景の写真がとれてので、よしとします。カードの使い方や地下鉄のチケットの買い方分かった。
失敗もしたけれど、いろいろな体験ができて面白かった。

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2015年9月13日 (日)

ドバイ市内観光

9月12日 午前7時ドバイ入港
 ドバイは12日、13日、2日間の寄港となる。ドバイ寄港中に飛行機で来る250人が乗船してくる。
日中の気温は40度、夜は30度、湿度は100%近くジーとしていても汗が出てくる。それでも8月は50度だったので、涼しくなったとのことである。
ドバイ市は人口2百万人、2割がアラビア人で残りはインド、パキスタン、バングラディシュ、フイリピン、中東、ヨーロッパから出稼ぎに来ている人である。
ドバイ国籍を持った人が上位階級を占め月給は150万円くらいもらっているとのことである。しかし、出稼ぎ者の給料は、その1/10との説明でした。

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この地は200年前は天然真珠をとり輸出する小さな漁村であったが、その後、石油が出て国が発展した。現在はもう石油は出ない。しかし、その間にインフラを整え。現在は金融と観光の都市に生まれ変わりつつある。現在でも各国から人が集まって来ており、町中は建設ラッシュである。

 12日午前中は4時間のショート観光ツアーに参加した。
見学したところ。

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■バージュアル・アラブ
  海岸線にある景観は抜群の5つ星ホテル。

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■シュメールモスク

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■街中観光
 以前、土着のドバイ人が住んでいた所で映画に出てくる細い路地が続く。しかし、現在は金持ちのなったドバイ人は住んではいない。

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■ドバイ・ミュージアム
 4千年前からの、この地の生活様式や埋蔵品が展示されている。

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■スパイス・スーク、ゴールド・スーク
 スークとは市場のこと。この地は古くからインドからのスパイス、エジプト等からの金の交易の中継地点となっていた。その影響で狭い路地に各種スパイスや金製品の店がズラリと並んでいる。

 バスの中は冷房が利いているが、バスを降りると40度の灼熱、頭がクラクラしてくる。
市中を走っている車は殆どがトヨタである。ランドクルーザーが多い。
なぜトヨタかというと、この地では街のすぐ横は砂漠である。街の人は週末には砂漠に出かけるが、暑いのでクーラーは必須である。ヨーロッパ車はクーラーが弱い。トヨタ車はクーラーが非常に良いということで、殆どの車がトヨタ車に変わってしまった、とのことでした。

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2015年9月 9日 (水)

ムンバイ

 ムンバイ(英語名ボンベイ)は紀元前1000年前からある歴史のある街である。1668年から1947年までの間、大英帝国の一部として英国の支配下にあった。ムンバイは英国東インド会社の拠点として貿易港として発展してきた。現在は、金融業、映画産業で栄えているようである。人口は1200万人と東京都とほぼ同じであるが面積は東京よりも小さい。使用される言葉は主にヒンズー語であるが、他に100種類位の言葉が共存している。

 9月8日、午前7時にムンバイ港に入港した。
オプショナルツアーはショート観光を選んだ。午前9時より、インド門、CST駅、ドービーガーター、旧称ウエールズ博物館、コラバコーズウエイを通って港に帰るコースである。

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インド門
 1911年に英国ジョーズ5生世夫妻の来印を記念して建てられた。英国の植民地支配の象徴である。そのすぐ横に、インドの大富豪ターターが建てたタージ・マハール・ホテルがある。

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CST駅
 東京駅に似たレンガ作りの立派な駅で、ここからインド各地の列車が出ている。
バスで市内を見ていると、多くのビルがあるが、ほとんどがレンガ作りである。これも英国統治時代の名残であろう。

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ドービーガーター
 ヒンズー教のカースト制度では、地位別に職業が分類されている。現在では法律で撤廃されているとのことであるが、実質的にはその名残が残っている。ドービーガーターとは洗濯屋さんの集合地域のことで、この地域に屋外洗濯場が見渡す限り一杯に広がっている。
ムンバイの一般家庭には洗濯機はない。ドービーガーターから洗濯屋さんが週一回洗濯物を取りに来てくれて選択して返す。案内人の話では1パック200円程度で、キレイに洗濯されたものが返ってくる、間違いも殆ど無いとのことであった。

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チャトラバティ・シヴァージー・マハラージ・グァッツ・サングラハラヤ(旧プリンスオブウェールズ博物館)
 ウェールズの皇太子の来印を記念して建てられて博物館。紀元前1000年前から現在に至るインドの収集物や美術品が展示されている。

コラバコーズウェイ
 ムンバイの繁華街.
12時すぎに到着した。ここで、バスにおさらばして、友人と二人で自由行動に変えた。

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2015年9月 5日 (土)

インド洋上で

 8月31日にシンガポールを出て、次の寄港地はインドのムンバイです。
ムンバイに着くのは9月8日の予定ですから、その間、8日間洋上で過ごすことになる。

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シンガポールを出て、インド洋に入ると白波が立つ訳ではないが、波のうねりが大きく船がゆっくりではあるが大きく揺れる。

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熱帯なのでサバンナ気候、今は雨季で空は曇っており、時々スコールが来る。スコールは局所的に来るので看板に出ると降っている場所に虹が立っている。
夜は南十字星が見えるはずであるが、常に曇り空なので見えない。

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現地時間5日午前8時30分にスリランカのドンドリ岬を通過しました。これからアラビア海に入る。海から見る灯台の景色を撮影しました。

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その他、これまで撮ったちょっとよい写真は「南シナ海の夕日」、これは綺麗に撮れている。友達になった大阪のおばちゃんに見せたら欲しいというので渡したら、絵葉書にして家族に送っていました。

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ラテンダンスナイト

9月4日
 乗船15日目なると船の生活にも慣れてきました。
5時半に起きて太極拳、ラジオ体操、ノルディックウォーク、朝のサルサダンスの後朝食、日中は1.5時間程度の水先案内人の講座が3回程度ある。大体はそのうちの1~2回程度は参加しています。

 昨晩は、クラブバヒイアで生バンドによるラテンダンスナイトがあった。曲目はジルバ、サンバ、サルサ、タンゴである。サルサは今習っている最中で、ジルバ、サンバも何とかこなせる。今日の講演の細川元首相の細川佳代子夫人も隣のボックスに来られた。国内ではこんな機会は全くない。ダンスを申し込むだけの度胸はないが、挨拶程度の話をしました。
知り合いの80歳を超えるおばちゃんも来ていてボックスで寂しそうにしていたので、サルサダンスに誘いました。今朝、朝食の時に偶然会ったら「昨日はダンスに誘ってくれてありがとう。楽しかった。」と丁寧なお礼を言われた。何かよい事をしたような気分になりました。

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2015年9月 1日 (火)

シンガポール

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 8月31日12時にシンガポール入港。
シンガポールと言うのは、シンガ=獅子、ポール=街 という意味だそうです。
中国人、マレー人、アラビア人、インド人など多数の人種で構成されている。
現在移民が流入しており人口は増えているが、出生率は低いとのことである。

 今回もオプショナルツアーとしてショートコースに参加した。
行った場所はリトルインディア、アラブ街、中華街、マーライオン公園の4箇所である。

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 アラブ街

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 中華街

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  マーライオン公園ではバスからおりて30分程度町中を散策する。

 バスガイドさんの説明では、シンガポールの平均寿命は56歳で余り長生きしない。これは肉中心の食生活が原因と言っていた。
多民族国家ではあるが、宗教が違う人がカップルになると生活上のトラブルが発生するので、宗教が違う人が結婚することは殆ど無いとのこと。
シンガポールでは女性が強い、と言うよりは完全な男女同権である。奥さんが主人の食事を用意するということはない。結果的に外食中心の食事になっているとのことである。
結婚をしても簡単に離婚してしまう。結婚5年後の離婚率は40%とのことである。

 ショート観光の後、ターミナルで待ち合わせて市内へ飲みに出かける予定であったが、待ち合わせ場所の認識違いで落ち合うことができなかった(電話番号帳も持っていなかったため)。
仕方がないので、船に帰って外デッキで飲みながら夜景と出港式を楽しむことにした
1時間も待って、気持ちが動揺していた関係でパスポートを返すのを忘れ、スタッフの方が乗船していないのか心配して散々探しまわり、10時頃波平にいることを突き止めて取りにきてくれました。おさわがせしてどうもすみませんでした。
飲み過ぎて、今朝は二日酔い。太極拳を休みました。


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