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2015年1月 2日 (金)

初詣と神社造営のいわれ

今年は、元旦の小松ウォーキング協会の初詣ウォーキングから始まった。
小松駅から多太神社、日吉神社、安宅住吉神社、兎橋神社をひと回り12kmのコースである。途中の木曽町公民館で豚汁が出る。
初詣とは、神様に今まで生かされてきたことへの感謝と、これから一年の五穀豊穣と願うものらしい。しかし、五穀豊穣は、現在では、自身や家族、縁のある人々の厄除け並びに無事息災、心願成就をいち早く願うものに変わっている。
私は今年2月で73歳になる。4社を廻って手を合わせてこれまで生かされてきたことの感謝と、厳かな気分を味わってきたが、格段願いごとは浮かばなかった。
神頼みより、自分のことは自分でやれ!という気持ちが心の奥底にあったからかも知れない。
4神社の中で、一番の人出が多いのは安宅住吉神社、その次が日吉神社である。
安宅住吉神社は、神社までの長い石段、燈籠、たいまつがあり、厳かな雰囲気があるということが良い。
日吉神社が町中にあり便利なことと、お飾りが良い事だろう。

初詣をしたが、そのいわれも知らずお参りするのは失礼と思い帰って調べて見ると、意外なことに気がついた。

日吉神社
Img_1881
 比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた山王信仰の神社である。
比叡山を建立した最澄にとって比叡山の「山王」とは、山岳信仰に基づく、アニミズム的な形態に近い信仰対象であった。
「山王」とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる。
そういえば、写真をよく見ると、この神社はお寺のイメージとダブっている。
 

安宅住吉神社
  雪の中、安宅住吉神社で初詣を待つ人の行列
Img_1896
 三韓征伐に由来する神社から勧進された神社で住吉三神を祀る。
住吉三神とは、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神、また和歌の神とされる。
住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のこととの事。

--------------<以下、Wikipediaより転載>--------------

 日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍をおおいに苦しめたとされる。

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。

Ichireishikon
一霊四魂説の概念図。荒魂・和魂・幸魂・奇魂が並列的に存在し、それらを直霊という一つの霊がコントロールしているとする。

三韓征伐
 神功皇后49年(249年または369年)、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。
------------------<転載 ここまで>--------------------------

古墳時代・飛鳥時代・奈良時代にかけて、日本と朝鮮との間には活発な交流があったらしい。

ここで気がついたことであるが、私の従兄弟に徳島大学で中国史を研究している葭森健介という先生がいる。
彼に「小松」という地名のいわれを聞いた所、「高麗津」という言葉が訛って「こまつ」になったのではないかということであった。
小松には、板津、月津、符津、粟津、戸津、津波倉、今江、白江、沖、軽海、中海など 津に絡んだ地名が多い。
高麗との交流が多いのであれば、高麗津という呼び方があっても不思議ではない。

かって私の家の近くに国道8号線が通るとき、工事中に遺跡が出てきた。掘って見ると平安時代にあった密教寺院のあとで、高麗産と思われる陶器の破片が沢山でてきた。
ということは、この地には高麗から沢山の人がわたってきていたということ。私もなん%かは、その血筋をひいているのかも知れない。

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