能美古墳群をたずねて
和田山古墳群、末寺山古墳群は土を盛り上げた丘にあるが、丘一つが一つの古墳かと思っていたら、そうではなく一つの丘に10基ほどの小さな古墳が並んでいる。
始めて知ったことで、これを古墳と呼ぶのかどうか、少し戸惑いを感じた。
和田山古墳群は秋常山古墳の後に作られており、これは日本全国的な傾向で後期古墳の特徴であるらしい。
どうして、こうなったのかを考えてみると、自分の勝手な想像であるが、和田山古墳群は秋常山古墳の後に作られており、秋常山の巨大古墳の造営で財力を使い果たしてしまったことと、古墳に対する考え方の変遷から自然とこうなったのではないだろうか。
秋常山古墳は1号墳戸2号墳があり、2号墳は全長140mの前方後円墳である。
古墳は中国から伝わってきた。
古墳は「支配階級が、その権力を誇示するために造った」という側面もあるが、本質は
「生前に大いなる力を持った者の魂に……霊界を旅する事なく……あえてその地に鎮座していただき、それによってその地域全体の土地を守護してもらうために造られた」ものだそうです。
ですから、古墳はその地域一面を見渡す高台に作られている。
エジプトのピラミッドや南米の巨大墳墓も全く同じ考え方で造営されている。
2号墳の後方から見た所です。
石川県内最大の古墳で3世紀に作られている。
古墳の大きさは、その地方の支配者の権力を示すという面から見ると、当時、加賀地域の支配者がこの地を治めていたことが分かる。
秋常山古墳は全長140mであるが、日本最大の古墳は大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳で墳丘長約486m、築造年数 約15年8か月、作業人数 約680万人・日とのことである。
面積比例で計算すると、秋常山古墳の作業人数は約50万人・日となる。
作業は農閑期にやるとしても、50万人・日の日当を出すには余程の財力がなければできない。
権力者の埋葬室です。
墓は、奈良の大和朝廷から技術者を派遣してもらって造営したらしい。
この他、埴輪、土器類、六鈴鏡、鈴付銅剣などの出土品が陳列されている。
7世紀の日本と朝鮮半島から古墳が一斉に消えた。
この原因は、仏教伝来による火葬風習の定着によるらしい。
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