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2010年11月22日 (月)

水戸天狗党

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    秋風や 無念の叫び 天狗党

 21日の敦賀ウォークの時に松原神社と水戸天狗党”武田耕雲斉等の墓”を訪れた。
今年8月に茨城県立歴史化館を見学したこともあって、水戸天狗党の名前を知っていたが、天狗党が敦賀で最期を遂げたことは、ここにきて始めて知った。
なんとなく気にかかったので、少し調べてみた。

 幕末の頃、尊王攘夷の運動が盛んであったが、その元祖は水戸天狗党である。
水戸学での尊王攘夷の意味は、日本の国を守る種々の神を祭る儀式を執り行う天皇は敬うべき存在である、その天皇から政治権限を委譲されている将軍も敬い、その将軍を支える諸大名も畏敬の対象となる。
天皇という存在を表に出すことによって民心を統一し国力を強化し外国の侵略に対抗する。即ち、「尊皇攘夷」という言葉の本来の意味するところは「外国勢力に対抗できるように幕藩体制を強化しよう!」というものだったらしい。

その当時、水戸藩では尊王攘夷派と尊攘鎮派に分かれ抗争していたが、元治元年(明治維新)天狗党の同志が脱藩して、当時将軍後見職であった徳川斉昭の息子の一橋慶喜(後の15代将軍)を通して朝廷に自分達の考えを訴えようと挙兵した。

しかし、この頃になると、長州や土佐、薩摩において尊王攘夷の運動が盛んになるが、幕府に統治能力が欠けるということから、長州、土佐、薩摩における尊王攘夷は討幕の意味に変化していた。

以下「悲劇の水戸天狗党 平井修一」からの転載です。

----------------<ここから転載>-----------------------------

元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志と遂に挙兵、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1400人という大規模な集団に膨れ上がった。

幕府は天狗党追討令を出して諸藩に出兵を命じた。水戸藩も追討軍を結成し、元治元年7月7日(1864年8月8日)に諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まった。

武田耕雲斎が一行の総大将となり、幕軍の追っ手から逃れつつ、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。

11月1日(新暦11月29日)に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。

元治元年12月11日(1865年1月8日)、天狗党一行は遂に最期の地、越前新保(敦賀市の北)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、京都から来た幕府軍を慶喜が率いていることを知り、また慶喜に差し出した嘆願書の受け取りも拒否されて、自分達の志が潰えたことを悟った。

これ以上の進軍は無理と判断した武田耕雲斎ら天狗党幹部は降伏を申し入れ、元治元年12月17日(1865年1月14日)、天狗党は加賀藩に投降して武装解除し、乱は完全に鎮圧された。

その後、天狗党818名は現在の敦賀市舟町の鯡倉庫16棟に収容された。
1865年、幕府若年寄田沼意尊により、3月1日(元治2年2月4日)に武田耕雲斎ら幹部24名が斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに計352名が斬首され、他は遠島、追放などの処分が科された。

酸鼻をきわめた結末だった。

-------------<転載終わり>-------------------------------

 天狗党を実際に処刑したのは、桜田門外の変で井伊直弼を天狗党に暗殺された彦根藩の藩士でした。
そんなことから、「水戸市」 と 「彦根市」 は因縁関係にあったが、その後敦賀市が仲介となって、水戸市と彦根市は正式に和解し、現在は親善都市となっている。
また、処刑された人々は、その後松原神社にまつられたが、敦賀の人たちによって手厚く葬られていることから水戸市と敦賀市も姉妹都市となっている。

 ところで、NHKの“竜馬伝”は今週で最後だそうですが、“竜馬伝”に出てくる武市半平太の土佐勤王党も同じ運命をたどっている。

なぜこんなことになったかを考えると、水戸天狗党も土佐勤王党の下級武士の集団である。
現状に不満を持っている。そこに理論武装した強気のアジテーターが現れると、一気に同調する。一緒になって騒ぐのは痛快である。現実よりも観念論でどんどん進む。戦時中に優秀な人が進んで軍隊に志願したのと同じである。周り景色が見えないオカルト集団のようなものである。行きつくところは自滅である。


現在の政治でもその傾向がある。前回の選挙で自分は民主党に投票したのだが、自分はどうも騙されていたようだ。前総理鳩山由紀夫は、とんでもないアジテーターだったようだ。幕末の観念的な尊王攘夷論者と同じところがある。
明治維新のときの幕府に相当するのは、現在は霞が関を頂点とする官僚組織である。この組織は既得権益で機能不全に陥っている。ぶっつぶして造り変えなければならない。確かそんなことを言っていたようだ。そこのところに同調して民主党に投票した。

しかし、鳩山由紀夫氏は戦略・具体論を持ち合わせていなかった。辞めるのは当然だろう。だからと言って、自民党はもっと既得権益にどっぷり浸かっているので自民党に戻るという選択肢もない。

必要なのは客観的な現実を踏まえた具体的な戦略なのだ。
菅総理、ハコモノに何兆円もかけるのなら、その金の一部で戦略研究所を作ってはどうでしょうか。

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