これでいいのだ!
少し前、私より3歳年上の先輩からいただいたメールの一節中に
「・・・
先般も年賀状予約の連絡を受けもうビックリ。アレもしたい、
コレもしたい、アソコへ行きたい、ココにも行きたい、と考えるだけで
何ら無し得ないうちに、今年もいつの間にか終盤に入ってしまった。
残された時間は少ない。オーイ!誰かブレーキを踏んでくれー!」
という文章があった。
自分には、そんな感覚はないので、この文章が喉に小骨が引っ掛かったようで、なんとなく気になる。
それでは死ぬのが嫌でないかというと、そうでもない。
もう15年も前になる。50歳位のころ、ある開業医の検診で「ポリープがあるので、金大病院に紹介状を書くから診てもらいなさい。」と言われた。
癌ですか、と問い返すと、そうかも知れないがよく分からない、との返事。
金大病院に行くと癌病棟に入れられ、担当医から「念のため、もう一度精密検査をしますが、病気のことは分かっていますね」と念をおされ、これは癌に間違いない、もう何年かの命だと覚悟した。
理性では「人間は誰でも死ぬのだから仕方ない」と思っているのだが、見舞に来てくれた人と話をしていても上の空、いつも気持ちが滅入っている状態だった。
気持ちのどこかで死と対面していて、死ぬのが嫌だったんだろう。
入院一週間後、担当医が来て「西村さん、精密検査の結果ポリープは良性でした。」と言われた。その時、今まで心の中にあった雲が一度に晴れ「バンザイ」と叫びたくなったことを覚えている。
そんな経験をしているのに、死ぬまでに、どうしても何と何をやりたいと思ったことはない。
バカなのだろうか。
話は変わるが、先日日経ビジネスオンライン10月29日号「ポストサブプライム=人類はもっと謙虚になれ、もはや技術や資本も支配できないと」と題した哲学者木田元先生へのインタビュー記事を読んでいると、次のようなことが書いてある。
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人間は、ホモサピエンスになる段階で、未来、過去という時間の次元を開き、それにまたがって生きるようになりました。ただ、未来や過去とかかわり合うというか、そういう時間的な次元を展開する仕方が必ずしも一通りではなくて、いくつかあるのではないか、とハイデガーは考えたわけです。
ハイデガーは、「在る」ということを理解するうえで、自分を時間として展開する仕方と連動して考えました。ある特定の時間化の仕方には、ある特定の存在了解が対応する。つまり在ると言っても、いくつかある。
おのずから生成ないし成りいでて在るのか、それとも人間によって作られて在るのか、それとも動物のようにして生み出されて在るのか。ハイデガーや丸山眞男さんたちは3通りぐらいの見方を示しました。丸山さんは世界の民族の創世神話を整理してみると、この3つのパターンになると言っています。
その時間性の問題を自分自身が死ぬということに、どのようにかかわり合うか、そのかかわり合い方と連関させて捉えようとした。つまり常に自分自身の死に直面して、それに覚悟を定めながら生きるような生き方と、他人は死ぬけど自分は絶対に死なないと思って自分の死から目を背けて生きる生き方とでは、自分の未来にかかわる、かかわり合い方が違いますよね。
それに応じて、過去にかかわる、かかわり合い方も変わってくる、と言うのですね。そういう自分自身の死から目を背けて生きるような、そういう時間化の仕方に対応するのは、在るということをつくられたと見ているような存在了解だと。自分自身が死に常に直面しながら生きるような時間化の仕方に対応するのは、存在することを「成る」と見るような考え方です。
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木田元先生は『現在の経済の暴走、地球温暖化、人口爆発と言った状況は、西洋文明の「作られて在る=人や自然は(神或いは科学によって)作られた」という思想から来ている。今一度自分が存在することを「成る」と見るような考え方に変わらねばならない。』と言われている。
『でもそれが、できるのは人類が一度崩壊した後、わずかに生き残った人たちが、自分たちの文明をもう一度、立ち上げ直すときかもしれない』とも言われている。
何を言いたいかというと、
「死を見据えても焦ることはない。成るがまま」
バガボンパパも言っている。
「これでいいのだ!」
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