給与の銀行振り込みと「下流志向」の関係
「市民のための環境学ガイド02.25.2007」を見ていると、教育問題に関して「下流志向─学ばない子どもたち、働かない若者たち(内田樹著、講談社)」を取り上げている。
ここでの話で「不快貨幣による等価交換」という話が出てくる。
この根本原因は、父親の給与が銀行振り込みになったことにあるという。
------------------<ここから引用>---------------------------
A君:少しずつ論理構成上必要な話題も出てくるのですが、もっとも重要なのは、さらに先で、論理的に重要な項目を歴史順に並び替えれば、「不快貨幣の起源」がもっとも先ということになりますか。
B君:そこから説明しよう。「下流志向」の起源は、なんと、父親の給与が銀行振り込みになったことにあるという。そのため、母親にとって生活費へのアクセスが保証された。生活費を、感謝をして、父親から受け取る必要が無くなった。そして家庭内で起きたことが、「自分はこんなにも我慢している」ことを武器に他の家族と戦う方法。すなわち自分の「不快感」を貨幣にして、提供されるサービスなどと「等価交換」をするというやり方が発明された。
A君:それが、子どもに伝わって学校の授業にも、その「不快貨幣による等価交換」思想が反映するようになった。
B君:授業などを聞くには我慢が必要である。すなわち、授業を受けることは不快である。だから、「先生、この授業はなぜ役に立つのですか」、という質問をする。なぜならば、もしも教師から自分の価値観に訴えるような好ましい回答があったら、「不快感」との「等価交換」によって、「聞いてあげても良い」、という態度を取るため。
A君:例えば、小学校で最初に「ひらがな」を学習するときにでも、そんな質問をする。教師は、その問いに対して、やはり功利的な回答をしようとこころみる。例えば、どんな役に立つか、人生には必要不可欠だ、などなど。しかし、子どもにとって、理解できる理屈は、6歳の感性にも訴えられるような単純なものだけだから、「そんな授業は要らないよ」、という反応をする子どもができる。
------------------<引用終わり>---------------------------
この考え方には同感、いや、実感しますね。
自分も、給与が銀行振り込みになってから、これと同じ経験をした。
自分の給与なのに小遣いをほしいと言うと女房殿は如何に大変かをトクトクと説明する。
どこのサラリーマン家庭でも同じような感じだったかも知れないが、いつもバカバカしいと思いつつ雀の涙ほどの小遣いで我慢してきたように感じる。
子どもがニートにならなかったのは不幸中の幸い、だったかも知れない。
(奥さん、勝手なことを書いてごめんね。)
定年を過ぎて年金を貰うようになったとき、女房殿がサラリーマン時代と同じように「年金やその他の収入をそのまま私に預けて下さい」という。
何を寝ぼけたことを言っているのか、当然断った。
その結果、今では、女房殿の態度が昔と全く違うようになった、ことを実感している。
話は元に戻るが、内田氏の指摘は的を獲ているのではないでしょうか。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント