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2005年3月18日 (金)

猫アレルギー顛末記 その7

今月で、レオパレスを引き払い自宅に帰ることにしたが、振り返ってみると昨年の8月以来8ヶ月単身生活をすごしたことになる。
最初の頃は、ものめずらしさもあって単身生活もよいものだと思っていたが、そのうちの食事・洗濯など億劫になってくる。 仕事に関しても資料がないことやFAXの受・発信など何かと不便だ。特に、風邪を引いたときや体調の悪いときは心細く惨めだ。
理屈では仕方がないとわかっているのだが、時として、何で猫様が自宅でのうのうとしていて、自分が外でこんな苦労をしなければならないかという思いがこみ上げ腹が立ってくる。そんなとき、女房や娘から電話がかかってくると、つい当り散らしてしまう。

こんな状態では家へ帰れない、何とか自分の気持ちを落ち着かせようと思っていたときに、ラジオの私の本棚で向井承子筆「犬にみとられて」の朗読が入ってきた。
早速買って読んでみた。骨粗しょう症で特別介護を要する筆者の母が犬のゴン太のおかげでしぶみかけた命をもう一度温めた様子や、老犬となって椎間板ヘルニヤを患ったゴン太に大学病院で特別の手術をしてもらうなど人以上の扱いをする動物好きの人の気持ちがよくあらわされている。

しかし、気になる場面もある。筆者が、大学病院の手術室にゴン太を残して外を出たと時の場面
「ゴン太を残して病院を出る前に洗面所を借りた。病院の裏側と教えられていったん正面玄関を出てから建物に沿って曲がると、何頭もの犬たちの声が聞こえてきた。見ると、小ぎれいに整えられたペット対象の病院内とはまるで違う雰囲気の、明らかに実験動物の飼育場を思わせる倉庫のような建物から聞こえる声だった。ゴン太のことばかり考えてきた頭に、瞬間、水を浴びせられたような気がした。・・・」

同じ犬でもペットは人と同様、あるいはそれ以上に大事に扱われ、そのほか犬は単なる動物として扱われるという事実。 自分の家は犬ではなく猫であるが、同様のことをしている。

人も動物も、同じ生を受けて死ぬまでの命の大切さには変わりはない。
しかし、人間の身勝手さで、人間の命は尊ばれ、動物の命は軽んじられる。そして、ペットとなった動物は人間と同じく、あるいは人間に以上に命が尊ばれる。

これが現代、自分は、その事実を素直に受け入れなければならない。

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