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2004年9月 3日 (金)

加賀平野の地名のなぞ

 私は、加賀平野の平野部と丘陵地の堺にある小松市加賀八幡で育った。この当たりの地名を見ると、加賀八幡より更に山手の方向に行くと、軽海、中海といった地名があり、平野の中央に行くと白江、今江、本江、上り江といった江(海・湖などが陸地に入りこんだところという意味)の地名や、沖、島、不動島といた海の位置を示すような地名がある。また、平野西南部に行くと、板津、木場、津波倉、粟津、下粟津、符津、月津、片山津といった船つき場の意味を現す地名がある。
何時ごろからだったろうか、多分、中学生になってからだったと思うが、この地域は、平野や山間部にあるのにどうして、こんな名前がついたのか不思議に思っていた。
 そのなぞが解けたのは4年前のことである。通信制大学院の課題で「梯川水系の洪水対策のうちで、洪水流量を放水路で処理する場合、ダムにより調節する場合、遊水池を活用する場合の利点と欠点を述べよ。」というテーマが出た。私は、梯川流域に住んでおり、また地元でもあるのでこれを機会に図書館で文化財や地形やを調べ、梯川水系の実地踏査をした。そのときに、この地帯は2千年前は海であったことを発見した。
知っている人には、何でもないことだったかも知れないが、私にとっては「目からウロコ」、そのときの興奮は今でも忘れない。
 下の1万年前の加賀平野の地図を見てください。2百万年前に、白山が噴火し溶岩台地ができた。自分が育った加賀八幡は丁度の溶岩台地の先端に位置している。当時はそこから先は海だった。又リヤス式海岸になっていて、台地の裂け目に当たる部分が中海や軽海だった。
その後、川から運ばれた土砂が砂洲を形り、その範囲は羽咋から橋立尼御前岬まで、鳥取砂丘に次ぐ大きさだそうです。海岸砂丘は砂の流れで沖合いの安宅の辺から、途中の水辺を取り囲むようにできて行き、取り残された部分が河北潟や今江潟、木場潟、柴山潟の加賀三湖になった。
しかし、雨季になれば一面が湿地帯となるので江や津の地名がついたということのようです。
ということは、その当時から、この地方に人間が住んでいたのだろうか?
そうです。小松市教育員会の資料によると4千年前から縄文人が住んでいたようで、その証拠に、この当たりには古墳が無数に発見されている。
う~ん。では、自分は縄文人の子孫なのか。
いや、違う、多分、朝鮮系の混血ではないかと勝手に思っています。その理由は、別の回で掲載します。
  ↓1万年前の地形             ↓2千年前~現在の地形
  DSC01699.jpg DSC01705.jpg
 (出展:小松市教育委員会)

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