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2004年9月27日 (月)

加賀海岸自然遊歩道

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 今日は雨になったが昨日は晴れ時々曇り、9月最後の日曜日、加賀海岸遊歩道 加佐の岬から片野まで4.5kmを歩いてみた。

加佐の岬周辺
 加佐の岬から片野まで松林が続くが、どの松も幹が剥ぎ取られている。これは、第二次大戦時、石油不足で空軍が松やにを採って松根油を造っていたあとだそうです。今では、環境問題で菜種プロジェクトなどバイオディーゼルの活動が盛んになっているが松根油の話は余り聞かない。余り採算性はよくないのだろうか。

   加佐の岬                 松根油をとった跡
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遊歩道の横には、フジバカマ、オトギリソウなどが続く。
  フジバカマ     オトギリソウ     イヌタデ      野バラの実
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黒崎周辺
 加佐の岬から海岸沿いで海を眺めながら進む、1km位行くと道はブナ林の中に入る。遊歩道上は、いたるところ蜘蛛の巣がはってあり、小枝で払いのけながら進む。歩道にはモグラの通り道と思われるも盛り上がった砂の穴が至るところにある。
ブナ林の路を過ぎると視界が開け黒崎海岸に出る。崖の横の急な道を降りると浜辺につく。店しまいした浜茶屋が一軒ポツンとたっている。自然とトワエモアの歌を口ずさんでしまう。
   黒崎海岸                片野側より黒崎方向をのぞむ
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 今はもう秋 誰もいない海        今はもう秋 誰もいない海
  知らん顔して 人がゆきすぎても     たった一つの 夢が破れても
  私は忘れない 海に約束したから    私は忘れない 砂に約束したから
  つらくても つらくても            淋しくても 淋しくても
  死にはしないと                死にはしないと

黒崎から片野海岸へ
 黒崎から片野までは、海岸沿いに進む。海から吹けあげる風が気持ちがいい。

    ススキの中を歩く          片野よりの岬では野菊がいっぱい
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遊歩道の横には、ススキ、リンドウ、シシウドなどが続く。片野海岸の近くに橋立中学の生徒が植林したという石楠花の群落があった。春に来るとさぞキレイだろう。
  リンドウ      シシウド      石楠花の実     つゆくさ
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 帰りは、橋立 天然温泉「ゆもと」(入浴料350円)で疲れをとって帰りました。

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山ぶどう

 加賀海岸遊歩道を歩いているときに、山ぶどうを見つけました。
山ぶどうには人が食べられるものと、食べられないものがあります。食べられない種類の方は憩いの森、木場潟公園などでよく見かけますが、食べられる種類に出会ったのは始めてです。
口の中に入れると、甘酸っぱい味がしました。

  食べられる方↓              食べられない方↓
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2004年9月26日 (日)

パンパスグラス

 辰の口運動公園によってみると、見事なヨシ(葭)? 思わず写真を撮った。
しかし、木場潟の水際でよく見かける葭と少し様子が違う。 帰って調べてみると、パンパスグラス、日本名では白銀葭という種類らしい。
パンパスグラスはブラジル南部やアルゼンチンなどのパンパス(ラプラタ川流域―ブエノスアイレスを中心に広がる大平原)に大群落を作っているので,英語名ではPampas grass(パンパスグラス)と呼ばれている。
明治時代に日本に輸入されて広がったらしい。
日本古来の葭と較べてみると、葉のはえ方や花の色が相当に違っています。

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    ↑パンパスグラス(辰の口公園)    ↑日本古来の葭(木場潟公園)

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2004年9月20日 (月)

彼岸花

 今日は、彼岸入り、梯川へ「彼岸花」を見に行きました。
この時期になると、梯川の軽海町から埴田町の当たりが赤い絨毯のように彼岸花で一杯になる。おそらく、上流から球根が流れてきて広がったんでしょう。

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彼岸花は別名「曼珠沙華」という。
「彼岸」はサンスクリット語の「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界である【此岸(しがん)】にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち【「彼岸」(ひがん)】の境地へ到達することが出来るというものです。
「曼珠沙華」は、天上に咲く花。見る者に悪を離れさせるはたらきがあるという、意味だそうです。

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2004年9月19日 (日)

ススキ

 ススキは秋の七草の中でも代表的な花です。子どもの頃は、いたるところにススキが咲いていたように覚えているが、いざ写真を撮ろうと思ってみてみると田舎の方に出かいけないと見つけられないようです。
 近くで、見つけた群生地は小松市那谷町の農業用水の堤防です。最近の農業用水はコンクリートで固められていてススキが生える環境が失われているが、ここは、まだ開発の手が回っていなくて昔ながらの景色がながれられます。
写真を撮っているときに、丁度視界にヘリコプターが飛び込んできました。
  DSC01786.jpg DSC01794.jpg

道路わきや、池のほとりの風にそよぐススキもよいものですね。

「君が手も まじるなるべし 花すすき」 向井去来

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  ↑千木野町堤のススキ          ↑粟津温泉道路沿いのススキ

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2004年9月12日 (日)

台風18号の爪痕

 今日、木場潟公園を一周してみましたが、先日の台風でポプラ、柳、桜など十数本が倒れていました。
主として潟の北西側に被害が多い。湖をわたってくる風が相当強かったのですね。
倒れたポプラの木⇒DSC01728.jpg

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2004年9月 7日 (火)

台風18号通過 強風 怖かった!  

    tiket.jpg

 今日は、仕事で糸魚川からの帰り、高速道路上で台風18号と遭遇した。  
糸魚川インターの入ったのは午後6時30分ごろ、台風18号の影響で風は強かったが走れないという状態ではなかった。
 暫くすると、段々と風が強くなる。自分の車は旧型プリウスで車体が軽いためか、横風に左右に煽られる。
 滑川を過ぎた頃から、「横風注意50Km制限」の表示が出た。車速を落としたが、それでもハンドルが取られてうまく走れない。 
 魚津インターを過ぎたとところで、横風で中央分離帯に横倒しになったトラックに出会う。トラックが背が高いので横風でよけいに倒れやすいのだろう。それを見て怖くなったのか前を走るトラックは次々に流葉SAに避難し、道路上は乗用車だけになった。
 立山インターを通るときに「通行禁止」の表示が出たが、気がつくのが遅く立山インターを通り過ぎてしまった。
道路上は、自分の車だけ、対向車線の車もこなくなった。風は、益々強くなる。この風の強さでは止まって待つのも走るのも危険は同じだろうと思って、兎に角次のインターまでたどり着こうと、両手でハンドルを必死に握り締める。  道路上には倒れた杉の木が飛んできて横たわっていて、契れた枝がが飛んでくる。時々風が竜巻のように舞い上がる。冷や汗が出てきた。次の富山インターまでの時間が長く感じられる。
あとで聞いたところによると、その頃富山では風速42mを記録したそうなので、自分は風速30m~40mの中を走っていたことになる。

 富山インターで降りると、今までの風は嘘のように、そよ風程度にしか感じられない。海沿いの高架と平地ではこんなに風の強さが違うものとは知らなかった。ほっと胸をなでおろし、無事であったことに感謝する。

 検問所でくれた、通行止めによる乗り継ぎ証明書(上の写真)を記念にとっておくことにする。

追記:翌朝、車を確認すると、前方左側のバンパーがなくなっていた。飛んできた木の枝が当たったときに飛ばされたものと思う。

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2004年9月 3日 (金)

加賀平野の地名のなぞ

 私は、加賀平野の平野部と丘陵地の堺にある小松市加賀八幡で育った。この当たりの地名を見ると、加賀八幡より更に山手の方向に行くと、軽海、中海といった地名があり、平野の中央に行くと白江、今江、本江、上り江といった江(海・湖などが陸地に入りこんだところという意味)の地名や、沖、島、不動島といた海の位置を示すような地名がある。また、平野西南部に行くと、板津、木場、津波倉、粟津、下粟津、符津、月津、片山津といった船つき場の意味を現す地名がある。
何時ごろからだったろうか、多分、中学生になってからだったと思うが、この地域は、平野や山間部にあるのにどうして、こんな名前がついたのか不思議に思っていた。
 そのなぞが解けたのは4年前のことである。通信制大学院の課題で「梯川水系の洪水対策のうちで、洪水流量を放水路で処理する場合、ダムにより調節する場合、遊水池を活用する場合の利点と欠点を述べよ。」というテーマが出た。私は、梯川流域に住んでおり、また地元でもあるのでこれを機会に図書館で文化財や地形やを調べ、梯川水系の実地踏査をした。そのときに、この地帯は2千年前は海であったことを発見した。
知っている人には、何でもないことだったかも知れないが、私にとっては「目からウロコ」、そのときの興奮は今でも忘れない。
 下の1万年前の加賀平野の地図を見てください。2百万年前に、白山が噴火し溶岩台地ができた。自分が育った加賀八幡は丁度の溶岩台地の先端に位置している。当時はそこから先は海だった。又リヤス式海岸になっていて、台地の裂け目に当たる部分が中海や軽海だった。
その後、川から運ばれた土砂が砂洲を形り、その範囲は羽咋から橋立尼御前岬まで、鳥取砂丘に次ぐ大きさだそうです。海岸砂丘は砂の流れで沖合いの安宅の辺から、途中の水辺を取り囲むようにできて行き、取り残された部分が河北潟や今江潟、木場潟、柴山潟の加賀三湖になった。
しかし、雨季になれば一面が湿地帯となるので江や津の地名がついたということのようです。
ということは、その当時から、この地方に人間が住んでいたのだろうか?
そうです。小松市教育員会の資料によると4千年前から縄文人が住んでいたようで、その証拠に、この当たりには古墳が無数に発見されている。
う~ん。では、自分は縄文人の子孫なのか。
いや、違う、多分、朝鮮系の混血ではないかと勝手に思っています。その理由は、別の回で掲載します。
  ↓1万年前の地形             ↓2千年前~現在の地形
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 (出展:小松市教育委員会)

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